9. 今世の私の日常は

62枚目 兄妹の本音

 千秋ちあきの部屋へ入ってから、あおいは言葉を紡げずにいた。

 謝罪の言葉一つ、今の千秋にとってはどんなものよりも重いだろう。

 それをわかっているから、昔あった事を覚えているから、葵はどう返せばいいのかわからない。


(なんて言えば正解なの)


 未だに頭を上げない千秋のつむじを見つめ、葵は思考の海に落ちる。

 下手に何かを言えば、関係が崩れるかもしれない。

 仮にも今世では兄妹で、良き兄として接してくれている。


 むしろ今の今まで、お互い何も言わなかったのが奇跡と言っていいほどだ。

 今回は葵から切り出した、というだけで。


「……言われなくても知ってた」


 ようやくの思いで言葉を零した。

 話すまでに数秒かかったのかもしれないし、数分かもしれない。


「ううん、きっと私から聞いたかもしれない」


 ぴくりと千秋の肩がわずかに震える。


(怖い、の……?)


 何を言われても受け入れる、という千秋の姿勢は葵の胸をじんわりと痛めた。

 過去の事は戻らないが、今までの『千秋』の言動はすべて本心だろう。


 大きな背が次第にかたかたと震え、葵の言葉に怯えている。

 しんと静まり返った千秋の部屋が、普段ならなんとも思わないほどの沈黙が、今すぐにでも逃げ出したくなるほど居心地が悪く感じた。


「……そう、か」


 絞り出すような声音で千秋が呟く。

 小さな声が、この時ばかりはやけに大きく聞こえた。


「いつかは勘づくんじゃないかと思ってたんだ。昨日言われた時『あぁ、やっとか』って思った。正直、救われた気がしたよ」


 ややあって千秋が顔を上げる。


「っ」


 眉根を寄せ、今にも泣き出してしまいそうな表情をしている兄を、今まで見た事がなかった。

 落ち着いた声が悲しそうに聞こえて、こちらの胸まで締め付けられる。


「今のお前は妹で……あの時一目惚れしたお前は、どう足掻いても俺のものにはならないのに」


 ぽつりぽつりと、けれどしっかりと紡がれていく言葉の数々は、千秋の心からの本音なのだろう。

 それを今言ったからといって、過去に起きてしまった事はもう戻らない。


(私があの時、どんな思いをしたか知らないから)


 心の中で悪態を吐こうとしたが、やめた。

 今更蒸し返して、何になるというのか。

 過去は過去で、今は今でしかない。それは千秋も十二分に分かっているはずだった。


 ならば葵が今言うべきことは、おのずと決まってくる。


「でも」


 一度声を出そうとして、やめる。

 果たしてこの言葉は千秋にとって救われるのか。過去、自分たちに起きたしがらみから解放されるのか。


(ううん、言ってみないと何にもならないもの。だったら──)


 こちらも思いをさらすに限る。きっと千秋も、嘘偽りのない本音で話したいだろうから。


「兄さんは私から逃げないじゃない。……そんなに震えてるのに」


 躊躇ためらいがちに千秋の肩に触れる。

 避けられるかとも思ったが、千秋は葵にされるがままでぴくりとも動かない。

 ただ、自分よりも深い海のような瞳だけは、まっすぐに葵を見つめていた。


「ねぇ、兄さん」


 そろりと肩に置いていた手を、床へ正座している千秋のそれに重ね合わせる。

 ベッドから降りて葵も床へ座ったことで、至近距離で視線が交わった。

 この時だけは時間がゆっくりになっているように思う。

 静まり返っているのもあるかもしれないが、お互いの呼吸する音だけしか聞こえない。


「……ん」


 短く千秋が先を促す。

 その顔には、『鷹司薫』という人間の影は既に無かった。

 あるのはただ、優しい兄である『烏丸千秋』だ。

 きっと葵の言葉の端々から、伝えたいことを読み取ったのだろう。


 千秋は昔から聡い。葵が何かを言う前に先回りするほど、人をよく見ていた。


(それはきっと、私の知らない『緋龍』の本質なのかもしれない)


 兄の前世は知っているが、その裏に何があったのかは想像出来ない。

 ただ、観察眼にけているのは確かだった。


「分かってると思うけど。もう私達は」

「葵」


 意を決して声を出そうとするが、そこから先の言葉は静かな声にさえぎられる。

 葵はぱちくりと瞳を瞬かせた。

 先を促したのは千秋なのに、何故自分から遮るのかが分からなかった。


 前世の記憶と今の関係に決着を付けるのかと、心して部屋へ入ったのに、ここで遮られていては何も言えない。

 ぐるぐると葵が考えている間にも、千秋は自由な片手を葵の手の上に重ねた。


「何も言わなくてもいいんだ。もう分かってる」


 そうして葵の言葉を引き継ぐように、考えていた事を|そのまま言葉にされる。


「俺は何があっても昔、お前を傷付けた事に変わりはない。それはもう一度謝らせてくれ。ただ、これだけは覚えてて」


 ぎゅうと重ねられた手に力が込められる。

 痛くはないが、どうしてか引き絞られるように胸が痛い不思議な感覚が葵の頭を満たした。


「俺は何があってもお前の味方だ。つぐない、ってわけじゃないけど……葵を傷付ける奴らから、今度は俺が守らせてほしい」


 まっすぐに葵を見つめる瞳には、嘘偽りのない心からの本音が滲んでいた。

 ふざける事はあるが、こと言動に関しては絶対に嘘を吐かない人間だ。

 ここで否と言えば、きっと今度は葵が傷付けてしまう。


「……ありがとう。でもね」


 にこりと口元に笑みを浮かべ、思いの丈を言葉にする。

 千秋が本音で話してくれたのだから、今度は葵が本音で話す番だった。


「私は兄さんが思うよりもずっと強くて……それ以上に弱いの。だから私が落ち込んでいたり悩んでいたりしたら、それこそ今日みたいに話を聞いてほしい」


 部屋へ入ってすぐ、千秋から「怖がってる」と言われた時は身体が強ばった。

 千秋特有なのかもしれないが、見透かされているという事実は少なからず葵を不安にさせた。

 けれど、千秋は千秋だ。


 葵のすべてをわかった上で、自分の考えを言ってくれるのはありがたい。

 ならば、これからは「妹」として「兄」に助言を願おうと、そうした想いを言葉に乗せる。

 前世のしがらみのない、ただの兄妹として千秋には側にいてほしかった。


「兄さん?」


 じっと葵を見つめて黙り込んでしまった千秋に、ほんの少し不安を感じる。


(もしかして駄目だった……?)


 分かるまで何度でも言おうかと口を開こうとした時、腕を掴まれたかと思うと強い力で抱き締められた。


「ちょ、苦し」

「黙って」


 葵が抗議しようとする前に静かな口調で遮られる。


「……今だけは黙ってくれ」


 そうして一層強く、腕に力を込められる。

 息ができなくて苦しいが、千秋の思うことも分かる気がした。

 葵は千秋が満足するまで、大人しく抱き締められていた。

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