63枚目 本当の気持ち

 どれほど時間が経っただろう。

 数分も経っていなかったと思うが、我慢できず千秋の背中を渾身の力で叩くと、すぐさま解放してくれた。


「すまん、やり過ぎた」


 そうして素早く土下座した千秋は、謝罪の言葉を述べた。

 部屋へ入って一時間足らずの間に、二度も千秋の後頭部を見る羽目になるとは思わなかったが、このさまを見ていると心に余裕が持ててくる。


 どう足掻こうが、千秋は今世を謳歌おうかする大学生なのだ。

 前世の憎むべき鷹司たかつかさかおるではなく、ただの烏丸からすま千秋という一人の兄だった。


「けほ、落ち着いた?」


 少し咳き込みつつ、訊ねる。


「あぁ、ごめんな。……ありがとう」


 頼りなく笑うその表情は、千秋らしくない。けれど、憑き物が取れたかのように晴れやかな笑顔だった。


「ならいいの。でね、兄さんに……早速相談なんだけど」

「うん?」


 千秋がこてりと小さく首を傾げるのは、葵の話を聞いてくれる合図だ。

 前世では分からなかったが、今世で兄妹をやっているとお互いの些細な変化にまで、目敏めざとく反応するようになった。


 それを悪いことだとは思わない。

 ただ、前世の事を知った今では千秋が年齢よりも大人びて見えて、心臓が高鳴るのも事実だった。


「……お前、本当に俺の顔が好きだよな」

「え!?」


 図らずも葵は素っ頓狂な声をあげた。


(ま、まさか声に出てた!? もしかして今までのことも兄さんは聞いていて)


 ぐるぐると脳内で考える。独り言は言わないと思っていたが、全て声に出していたのだろうか。


(そしたらめちゃくちゃ恥ずかしい……!)


 知らず知らずのうちに頬に熱が集まっていく。


「ふ、そんな顔して……」

「え」


 小さな笑い声が聞こえたことで、葵は抱えていた頭を上げる。


「言っただろ、分かりやすいって」


 はは、と小さく笑う千秋はどこか妖艶な色香が漂っている。

 まるで今世でも緋龍ひりゅうを見ているようだと思った。


(いや、緋龍は兄さんの前世だから当たり前だけど!)


 千秋の前世を知る前でも、ただでさえ顔がいいと思っていた。

 そして緋龍だと知った途端、千秋の一挙手一投足が葵の目にあやしく映るのは、きっと気のせいではないだろう。


「で、何?」


 話を再開しようというふうに、千秋はフローリングから立ち上がった。

 そして後ろにある自分の椅子に座り直す。


「……和則かずのりさまも転生してるの」


 葵は何か悪い気がして、未だフローリングに座ったままだ。


「うん」

「でね、兄さん」


 心地よい相槌は、葵に勇気をくれた。

 けれど、この「相談」に乗ってくれるか否か、すべては千秋次第と言えるだろう。


(それでも私は言わないと。和さまに言われた事もあるけれど、まずは)


 ゆっくりと深呼吸をし、葵は口を開く。


「和則さまと会ってほしい」


 凛とした声音は、しんと静まり返った部屋に反響して消えた。


「会う? 俺が、あいつに?」


 なぜか慌てたように千秋が言った。


「駄目なの……?」


 何もおかしな事は言っていないはずだ。

 それに、二人は前世で会話をしていなかったように思う。

 前世の葵と麗はただの一般市民で、千秋は簪屋を営む店主というだけだったのだから。


「いや、駄目ってわけじゃないけど。あー……なんて言うかなぁ」


 珍しく歯切れの悪い口調で千秋は頭を搔く。

 葵が知る限り、前世での二人に接点すら無いと記憶している。

 もしも二人の間にあったとしたら、その時の和則がやんわりと言ってれたはずだ。


 包み隠さず本音で話してくれた千秋でさえ、葵に言えない何かがある。

 ここまで言い渋るという事は、そうだとしか思えなかった。


「なぁに」


 今度は葵が首を傾げる番だった。

 ここは黙って、千秋が言ってくれるのを待つに限るだろう。

 しばらくお互いにじっと見つめ合う。


「よし、この話はまた今度にしよう」

「なんでよ!?」


 が、ものの数秒で千秋の方から視線を逸らした事で、そして「今度」という言葉で、強制的に葵の相談は終了した。


「これには海よりも深い事情がありまして」


 にっこりと笑いながら、千秋は葵の手を取って立ち上がらせた。

 そうして早く出ていけというように、ぐいぐいと部屋の入り口に押し出そうとしてくる。


「ちょ、ちょっと! まだ話は──」


 終わっていない。

 そう抗議しようとするが、普段とは比べ物にならない力で背中を押されてしまう。


 当たり前ながら同性ならまだしも、男女の力量差に葵が勝てるはずもない。

 半ば飛び出すように、葵は千秋の部屋から締め出された。


「はいはい、じゃあ後でなー」


 いつも通りの千秋のほがらかな声だけが、扉一枚へだてた向こう側から聞こえた。


「はぁ……? 何、それ」


 ぎゅうと握り拳を作り、気持ちを抑えようとする。

 けれど、それでも耐え切れないものはあるというものだ。


「後で後でって……次に回しすぎでしょ!」


 葵のむなしい心からの叫びが、誰もいない廊下に反響した。

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