64枚目 父と兄の確執

 階段を降りてリビングへ行こうとした時、丁度玄関から誰かの話し声が聞こえた。


(母さんかな? でも今日は遅くなるって言ってたし)


 千秋の事で悶々もんもんとしているが、それにしても二人以上の声があるように思う。


(もしかして)


 葵は足早に玄関へ向けて足を進める。


「──で、よろしく頼むよ」

「はい、ではそのように伝えておきます」

「すみません、私までご自宅にお邪魔して……」


 黒を基調とした落ち着いたスーツに身を包み、玄関へ背を向けている長身の男。

 その目の前には、清楚を具現化したような二人の女性が男にお辞儀しているところだった。


(って)


 葵は玄関からあと数歩のところで足を止めた。

 男のその背や口調は、見覚えがあるどころではなかったのだ。


「いいんだ。それよりも帰りは気を付けなさい。そろそろ暗くなるからね」

「……はい!」


 男が笑ったのだろうか。見る間に女性二人の頬が赤く染まった。

 失礼します、と半ば浮き足立った様子のに向けて手を振る男──父である烏丸からすま貴仁たかひと──は、ようよう玄関の手前で固まっている振り向くと葵の姿を目に留めた。


「葵……!」

「え」


 仕事をしている時は格好良いし、自慢の父だと思う。

 けれど、こうして満面の笑みで駆け寄って抱き締めようとするのは止めてほしい。


「うぐぉ!?」


 ゴッ!


「あ、やば」


 聞いてはならない音と情けない声が響いてから、葵はそこて我に返った。

 貴仁の鳩尾みぞおちに、千秋お抱えの拳をお見舞いしていたのだ。


「父さん、ごめん! 大丈夫!?」


 うずくまっている貴仁に葵は慌てて駆け寄った。

 ブルブルと肩が震えているが、それでもなんとか貴仁は顔を上げた。

 口元は笑っているが、顔面蒼白といったふうだ。


「葵、強い愛を……ありがと、う──」


 親指を立てる仕草をしたかと思うと、貴仁から力が抜けた。

 ずしり、と貴仁の肩を支えていた手の平全体に重みが伝わる。


「父さんーーーー!」


 葵渾身の叫びが、リビングにほど近い玄関にこだました。


「……何してるのかしら、あの二人」


 少し前に帰宅していて、夕飯の準備をしていた百合ゆりがキッチンから覗くまで、そう時間はかからなかった。



 ◆◆◆



 キッチンから繋がっているリビングでは、数ヶ月ぶりに家族全員が揃っての夕食になった。

 百合は貴仁が帰る事を知っていたのか、貴仁の好物であるハンバーグを筆頭に、見た目にも涼しい冷製ポトフやサラダがテーブルに並べられている。


 百合の作る料理が美味しいのはいつもの事だ。

 けれど、葵は目の前に座る父に限りなく引いていた。


「いやぁ、ごめんごめん! 久しぶりに葵と会えたのが嬉しくてなぁ!」


 家族全員が引くほどのデレデレとした笑みを顔に貼り付け、貴仁が言う。

 百合はさすがに慣れているのか、それとも平常心を心掛けているのか、何も言わずハンバーグを口に運んでいる。


「まぁ何はともあれ……おかえり、父さん」


 口調こそいつも通りだが、千秋の瞳は笑っていない。寧ろ深い海のような美しい瞳が、更に暗くよどんでいるように思う。


(まぁ、そうよね)


 千秋の前世をつい先程聞いたばかりだが、詳しくは知らなかった。

 麗との事を相談しなければ、あのまま葵の知らない過去も話してくれたのだろうか。


(でも父さんが苦手だっていうのは分かるわ……)


 千秋は普段から明るく、父が不在にしている時の夕食は楽しいという一言だった。

 貴仁は外交官として、日々日本の為にと陰ながら働いている。

 それを尊敬こそすれ、オフの時の貴仁は葵も苦手だ。


(思春期だからよね……多分)


 目の前には身体からハートでも飛び出しそうな父が。

 斜め隣りには冷静を体現したような母が。

 隣りに座る葵の肩が小刻みに震えるほど、どす黒いオーラを発している兄が。


 傍から見れば和やかな光景そのものだが、千秋に至っては本当に父が苦手なのだろう。

 ちらりと千秋の方を盗み見る。


「──でさ、葵が言ったんだよ。『私には兄さんしかいないから!』って」

「……は!?」


 少しも似ていない千秋の声真似が丁度聞こえた事で、さすがの葵も今までの思考を停止させる。

 いや、それ以上に聞き捨てならないことがあった。


(いつの話をしてるの、このバカ兄は!)


 どうやら千秋の話は葵の中学生時代のことらしい。

 それも、本当に些細な事で喧嘩して仲直りした後の出来事だった。


「ま、今も俺がいないと駄目な妹だもんなぁ?」


 にこにこと柔らかく微笑みながら、千秋は頭を撫でてくる。

 手つきは優しく、先程まで真剣な顔で前世の事を話していた男とは思えないほどだ。


「も、もう! また兄さんは子供扱いして……!」

「妹なのは事実だろ」


 そう言うと、ワシャワシャと乱雑に撫でられた。

 元から癖のある黒髪は、千秋の手により乱れ始めている。


「ちょっと、父さんも母さんも見てないで止めて!」


 葵は堪らず、目の前の両親に助けを求める。


「はぁ、私の知らない所でそんな事があったなんて……知らなかったわ」

「それで? もっと聞かせてくれ、後で記録するから」

「母さん、今はそんな事いいから!」


 およそ父親とは思えない言葉を吐いた貴仁はおいとくとしても、本当にびっくりしているだろう百合に向けて葵は叫ぶ。


「ちょ、葵ちゃ〜ん? 俺は? ねぇ、お父さん無視しないで」


 普段通り千秋と軽口を叩き合いながら、百合に加えて貴仁も交えた和やかな夕食は終わった。



 ◆◆◆



 物心付いた時から父は家を不在にしがちで、それが普通だと思っていた。

 貴仁も貴仁で仕方ないと思いつつ、家族の為に一生懸命働いてくれているのは自覚している。

 にこやかに夕食を食べていたが、ピリピリとした空気は拭いきれない。

 そう、思った。


(今までわからなかったけど、兄さんと父さんの間には何かがあるんだわ)


 葵は部屋に戻って今日の授業の復習をしながら、そんな事を考えていた。

 そろそろ定期試験が近く、頭に入れられることは入れておきたかった。


(私が知るところではないけど……)


 表面上は何もなかったように思うが、男同士というものは女が知らないだけで何か思うことがあるのだろう。


かずさまと緋龍ひりゅうみたいに)


 千秋には結局はぐらかされ、和則かずのりとの前世の事は聞けず仕舞いだった。


(和さま……ううん、れいくんに聞くしかないわね)


 明日は休みだが、麗は家に居るのだろうか。

 先日、まだスマホを持たせてもらっていないと言っていた。

 そもそも家の電話番号すら知らないから、連絡手段は無いに等しく、直接出向くしかなさそうだ。


(もしいなくても、今日だけで色々あり過ぎたから気分転換したいし。少し遠出してみようかな)


 少しお洒落をしていくのもありだろうか。


「そういえば、前買ったきりのワンピースがあったんだっけ」


 夏に向けてもあるが、先のバレーの試合のご褒美に一華いちかと一緒に買ったのだ。

 淡い水色を基調とした、小花柄のワンピースは一度も着ることなくクローゼットに眠っている。


 お互い制服の姿しか見た事がなく、この機会に麗へ見せるのもいいかもしれない。

 もしも家に居たとすれば、葵の姿を照れながらも「可愛い」と褒めてくれるだろう。


(それを着ていくのもいいかも)


 普段着姿の麗も見れ、自分のワンピース姿も見せられる。あわよくば、いや確実に褒めてくれるだろう。

 浮き足立った気持ちのまま、葵は眠りに就いた。

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