5. いつも俺の日常は

28枚目 贖罪の意味

 光の差し込まない薄暗いリビングに、一人の男の影があった。

 春から初夏に変わろうとしている季節。まだ肌寒く、外では時折冷たい風が吹いている。


 早希と麗はまだ夢の中にいるようだ。早朝の静けさも相俟あいまって、地味に将英の胸を打った。

 誰も自分を見送る者はいない、そう改めて実感させられているようで。


 (今考えると俺が甘かったんだ)


 早希が許してくれると、心のどこかで確信仕切っていた。けれど実際は違った。

 許してくれなくてもいいから捨てないでくれ、と男の矜恃きょうじも何もかもをかなぐり捨てて土下座した。

 早希はそんな将英を冷ややかな瞳で見つめていた。何を言うでもなく、ただ紺色の瞳が向けられるだけ。


 その視線は冷えきり、もう将英に笑いかけてもくれないだろう──漠然とながら思った。

 朝陽が来たあの日からひと月も経っていないのに、もう遠い過去のことのように思う。

 そうして今、一人きりのリビングで将英は光の無い瞳でぼそりと呟いた。


『……仮でも裏切ったことに変わりはない。早希、ごめんな』


 その視線の先には将英の字で書かれた手紙が一通、テーブルに置かれていた。

 内容は言わずもがな、将英が早希の隣りに居るべきではないということ。

 もしかしたら必要であろう離婚届も書き、判をしている。


『……本当、何やってんだ』


 自分はなんて馬鹿なんだろう、と改めて自嘲する。

 あの日から早希と会話する事もなく、目を合わせる事も無かった。

 朝食を自分で用意する事が増えた。夜になると、今まで付き合いの悪かった上司や部下と共に飲みに行く日々。帰路に着く頃には日付けが変わる事もザラだ。


 それもこれも、早希に対する罪悪感からやっていることだった。

 自分は必要無いと、このひと月余りで痛感したはずだ。後はこの家を出ていくだけで、将英を縛り付けた罪悪感から解放される。


 数年住んだ家に別れを告げるだけなのに、その一歩がどうしても踏み出せないでいた。


 (思い出が増えすぎた)


 早希と共にあれこれ意見を出し合って、やっと見つけた家。数年も経たずに麗が生まれ、どんなに仕事が忙しくても家に帰ると愛しい家族が居てくれた。

 家族というものは、知らず知らずのうちに将英にとってかけがえのない存在になっていたらしい。


 ギリリと無意識のうちに奥歯を噛む。

 優しい妻を怒らせ、まだ幼い息子に父親らしいことをあまり出来なかった。

 その事がどうしようもなく悔しいと同時に、自業自得だと思った。


 (次会う時は)


 ぐいと涙が出そうになった目元をぬぐう。


『きっと──だろうな』


 静寂が続くリビングに、将英の小さな声はすぐに溶けて消えた。



 ◆◆◆



 ──そんな事が自分の居ない間にあった、という事を麗はあまり知らない。

 そもそもまだ赤子で喋ることも出来なかったから無理はないが、あの頃は家で起きた事がすべてだった。


 二人の間に確執がある、というのに気付いたのは一歳の誕生日を迎えてすぐの頃。

 テーブルに置き手紙と判を捺した離婚届を残し、将英は消えてしまったのだ。

 その時の早希が何を思ったかは本人次第でしかないが、出ていこうとした事を分かっていたのだろうと思う。


 将英が出て行った後の早希はもっと強くなった。まるで自分はそうあるべきだ、と言い聞かせるかのように。

 母として、時には父として気丈に振る舞う早希は、麗から見ても頼もしかった。

 けれどうんざりする事もあったのは確かだ。現に今の状況がそうなのだから。


 「……貴方はこの家から出ていったはずでしょ? どうして戻ってきたの」


 しんと静まり返ったリビングに、早希の落ち着いた声が落ちる。


 麗の中身は二十代のままだから、会話を理解する事は出来る。しかし、子供の前で言い争う親もどうなんだ、と思う。


 (ほとほと困り果てる、ってこういう事を言うんだろうな)


 麗があれこれと考えて現実逃避している間も、両親のやり取りは続いていた。


 「何故俺の言うことが分からな──あぁ、そうか。お前が俺を許さないっていうなら俺にも考えがある」


 そこで一旦言葉を切り、将英が一枚の紙を懐から取り出す。それは四つ折りにされており、中身は分からない。

 けれど、麗には分かっていた。これから何が起こるのかを。


 「なに、これ」


 怪訝けげんそうな表情で早希はそれを受け取り、ゆっくりと四つ折りにされたそれを開く。


 「っ……!」


 早希は紺色の瞳をみはり、続いて将英を凝視する。


 「婚姻届……?」

 「そうだ。早希、何も言わず聞いてくれ」


 先程までの怒りが成りを潜めたかのように、将英の声音は落ち着いていた。


 「俺はあの時、最低な事をした。傷付けてしまったのも知ってるし、何度謝っても足りないくらいだ。……俺はお前の隣りにいちゃ駄目な人間なのに、毎日思うんだ」


 そこで一度言葉を切り、将英は俯きがちになる。


 「必要だって。俺の隣りには……早希に居て欲しい。仕事から帰ってきて、おかえりって言われたいのはお前なんだ。俺に笑顔を見せて欲しいのは、早希しかいないんだよ」


 紡ぐ声は微かにだが震えていた。心なしか泣き出しそうな声音に聞こえたのは、麗の思い違いだろうか。


 「お願いだ、もう一度チャンスを──俺にください」


 そこで将英は膝を突いた。許しを乞うように、早希の言葉を待っている。


 「……私は」


 ビクリと将英の肩が揺れたのが、麗にも見て取れた。


 「貴方が出て行って言い過ぎたんだと思った」

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