27枚目 豹変する者
将英が酒に酔った夜から数日が経ったある日。訪問者がやってきた。
『まさか奥さんがいらっしゃるなんて思わなくて……。先日はすみませんでした』
ご丁寧に菓子折りまで持参し、これまた丁寧に頭を下げた人物は朝陽だった。
インターホンが鳴った後すぐに早希が出迎えたが、「将英を呼んでくれ」と言って聞かなかったらしい。
たまに早希の友人が家に来ることはあれど、将英を訪ねてくる人物は少ない。
片桐は何も言わずともズカズカと家に上がり込み、気付いた時には
こうして本人の口から謝罪を聞けたのはいいのだが、朝陽がどんな爆弾を投下するのか将英にとっては気が気じゃない。
(……それを早希の前で言うのか、こいつは)
朝陽がこうして出向かなければ、仮にも将英が他の女と寝たかもしれない、という事を黙っていれば、何事もなく時が過ぎたはずだ。
丁寧に謝罪の言葉を述べてはいるが、内心では将英との事実を言いたくて仕方がないといった風だった。
ちらりと隣りにいる早希を見やると、目を大きく見開いて朝陽を凝視していた。何を言われたのか分かっていないらしい。
『あ、あー……あれだよな、前会社に』
『本日伺ったのは、将英さんとの関係をお伝えするためです』
朝陽は将英の言葉を遮り、そんなことを口にする。
透明で少しの濁りもない瞳には、自分こそが将英に相応しい、早希には釣り合わない、そう言っていた。
きゅ、と身体が少し後ろ引っ張られる。すぐに早希の手が将英の服の裾を摘まんでいるのだとわかった。
将英を見つめる早希の紺色の瞳には、よどみない色が
申し訳なさに打ちひしがれそうになるものの、両手をぎゅっと握りしめて耐える。
(大丈夫だ、早希は離れないって言ったろ。ここで折れちゃ何にもならない)
自身を
大丈夫だ、と安心させるように早希の手を握る。
『……お客様をこんなところで立たせておくのもなんですし、上がりませんか?』
そこで自信が付いたのか、早希が中へと促す。
今から話される事がどういう事なのか、愛しい妻は知らない。
外では
将英と早希の真正面には、テーブルを挟んで朝陽が座っている。
(……この女は何を言ってるんだ)
呆れ返って言葉も出ない、とはこういう事を言うのだろう。
将英は今のこの状況から目を逸らしたくなった。
『──という事なんです。お分かり頂けたら良いんですが……』
果たして朝陽が出向いた事情は、やはり将英と寝たという事だった。
内容は新歓を混じえた飲み会で、将英が誤って朝陽の酒を飲んで酔い潰れてしまった事。責任を感じた朝陽は、自分が介抱すると名乗り出たのだと。
家まで送り届けようとした時に、将英の方から「ホテルに行こう」と誘われた事。そして、ホテルに着いてすぐに身体を求められた事。
何もかもがデタラメだった。
新歓で片桐も同席していたことは、早希も知っている。けれど、将英が先日片桐から聞いた話とは、圧倒的に違ったのだ。
『早希……』
そっと将英の右側に座る早希を
早希は黙って、時折膝に置いた手を握り締めて朝陽の言葉を聞いていた。
何かに耐えるように小刻みに肩が震え、段々と顔を俯かせる。思わず震える早希の肩に手を添えようとしたが──
バシッ!
『さ、き……?』
この場の時が止まったかのような錯覚に陥った。実際には
痛みは毛ほどもないが、右手の甲がほんのりと赤みを帯びている。
早希の行動に驚きこそすれ、
いつもの早希とは何かが違うという、漠然とした恐怖が背筋を走る。
やおら早希は椅子から立ち上がり、真正面に座る朝陽をキッと
『さっきから黙って聞いていれば、まさくんが貴女と寝た? まさくんの方から求めた? ……一体何を言っているの』
バン、とテーブルを力いっぱい叩く。
リビングからすぐ隣りの部屋で寝ている麗が起きやしないか焦ると同時に、将英は驚きが隠せなかった。
喧嘩をしても最後には将英が折れてしまうからか、はたまた将英が知らなかっただけか。早希が本気で怒る姿を見たことがなかったのだ。
ここまで感情を
『貴女はまさくんが既婚者だって知らなかったのよね。それで? 妄想をペラペラ喋って、話が終わったら私がどう出るって思ったの? もしかして、今ここでまさくんを
『あ、えっ、と……』
早口に
そんな早希の変貌ぶりに、流石の朝陽も怯む。目がきょろきょろと泳ぎ、今にもこの場から逃げだしたいという表情だ。
将英でさえ知らなかった一面なのだから、朝陽が
『ねぇ、何か言いなさいな。怒らないから』
問い掛ける声音は優しかったが、目が笑っていない。早希の美しい紺色の瞳は、今はどんよりと沈みきっていた。
ゆっくりとながら相手を諭すような口撃にすっかり
『ごめんなさ……っ』
小さな、さすれば空気に溶けて消えてしまいそうな言葉が呟かれる。
『んー、聞こえない。ほら──もう一度、大きな声で?』
しかし、早希は許してくれない。
先程よりも
『ぅ……ひっく』
『……泣いてちゃ分からないでしょ。相手を傷付けてしまったら謝る。小さな子でも分かるのよ』
朝陽のすぐそばに移動して目線を合わせ、顔を覆っている両手首を掴んで退かす。
『それが分からないほど子供じゃないでしょ』
まるで本当の子供に言い聞かせるかのような声音に、ぞくりと悪寒がした。
そう思ったのは将英だけではないようで。
『す、すみませんでした……!』
未だに身体が震えているが、朝陽はなんとか声を絞り出して謝罪の言葉を口にする。
『うん、よろしい』
にこりと微笑み、わしゃわしゃと朝陽の頭を撫でる。それを朝陽は黙って受け入れていた。
先程まで冷気をまとっていた妻が、夫の部下の頭を撫でている。
傍から見ると奇妙な光景だが、その事をおかしいと言う者はいない。
ここまで将英は呆然と二人を見つめていた。早希に呆気に取られたとでもいうのか、口の中がカラカラに渇き、何も言えなかったのだ。
『それから、まさくん?』
ひゅ、と喉が鳴った。
将英に向けられた瞳は笑っているものの、声音には少しの慈しみさえ無かった。あるのは
『え、あ、早希……?』
突然向けられた矛先に、今度は自分の番だと悪魔が言っているような心地がした。
『私は許すって言ってないもの。時間は沢山あるし──お話しようか』
けれど早希から発される言葉は、こんな時なのにどろりと甘く将英の耳に入り、それでいて艶を含んでるように感じた。
しかしこの日を境に、八坂家には光が無くなった。
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