26枚目 酒の代償

 キッチンから水を持ってくると、将英はちびちびとながらすべて飲んだ。


『落ち着いた?』

『あぁ……すまん』


 そんな謝罪の言葉をぽそりと口にする。


『大丈夫だから謝らないで。ね、着替えて寝よう? もう遅い時間だし』


 片桐が将英と共に玄関に現れたのが日付けが変わって少しした頃。先程キッチンの時計を見たら三十分をとっくに超えていたから、最低でも今の時間は一時前だ。


『あー……そうだな』


 よろりと覚束無おぼつかない足取りで歩こうとするため、すかさず早希が支える。


 スーツからゆったりとしたスウェットに着替えさせ、将英をベッドへ寝かせると時刻は一時七分。

 ベッドのすぐそばに設置してあるベビーベッドでは、麗が健やかな寝息を立てていた。


 麗は夜泣きのひとつもしない。起きている時もお利口で、泣くことといえばお腹が空いた時くらいのものだった。

 ほとんどの友人の子はよく泣くと聞く。寝たと思えば泣き出し、泣き出したかと思えばぱったりと眠る。この繰り返し。

 おかげで毎日寝不足で、と女子会をした時に愚痴っていた。


 同年代で同じ年頃の子がいる友人の話を聞いていると、我が子は肝が据わってるとでもいうのだろうか。この子は将来大物になる、と早希は密かに夢想していた。


『……早希』

『ん?』


 ぎしりとスプリングがきしんだからか、それともまだ寝付けないのか、早希から背中を向けていた将英が名を呼ぶ。


『お前はどこにも行かないよな』

『どうしたの。もちろん行かないよ──私はずっと傍に居るから』


 将英がこんなに弱気になるのは、仕事が忙しいからか。はたまた何か言い難いことがあるからか。

 どちらにしろその不安を取り除きたくて、安心して眠って欲しくて、背中越しに将英を抱き締める。


 とくとくと穏やかな心音を聞いていると、早希の中に眠るわずかな違和感が霧散していくようで。気付けばこちらが先に眠ってしまいそうだった。

 時間にしては数分にも満たなかったかもしれないが、どれほどそうしていただろうか。

 やおら将英は寝返りを打ち、二人は向かい合わせになる。


『本当か? 俺の隣りにいてくれるのか……?』


 青みのかった翠色すいしょくの瞳が、不安に揺れている。

 何かを恐れているような、そんな瞳が早希に向けられた。


『私はここにいるよ。……今日何かあった?』


 頭に出た疑問が、咄嗟とっさに口をついて出た。

 しくったな、と思ったのもつかの間で。


『なんでもない。──なんでもないんだ』


 ぎゅう、と一度強く瞳を閉じたかと思えば「なんでもない」と何度も何度もうわ言のように繰り返す。

 そんな将英を落ち着かせたくて頭を、背を優しく撫でさすった。

 将英の言動の真意は本人にしか分からない。けれど、嫌な予感がするということは確かだった。


 (何かを隠してる……?)


 ただの女の勘でしかないが、普段の将英とは何かが決定的に違うのだ。

 勿論、将英が言いたくないのなら無理に問いただす気はなかった。


『早希』

『うん?』


 少しかすれた声で名を呼ばれ、視線を将英に合わせる。

 先程とは打って変わってまっすぐな、初めて会った時から大好きな瞳が早希だけを見つめていた。

 ふいに頬に手を添えられ、唇に優しくキスを落とされる。


『っ──』


 早希は僅かに目をみはる。

 それは少し塩っぱくて、今更ながら将英が泣いているのだと気付いた。

 静かに声を殺して泣くさまに、胸を締め付けられると同時に心配もする。

 やはり何かあるのだ、と思うが今の将英がとても聞ける状態ではないのは明白だった。


 やがて顔を離し、もう一度見つめ合う。ほろほろと涙を零して泣く将英が幼子のように見えて。

 今度は早希が頬に手を添え、流れ落ちていく涙を唇で吸い取った。


 言葉で問わない代わりに、大丈夫だと安心させるように。何かを恐れている将英が、今この時だけはその「何か」を忘れられるように。

 将英は早希のされるがままに身を任せ、気付けば眠っていた。

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