29枚目 覚悟を決めた日

 早希の小さな声が、その場に居る麗と将英の耳を打つ。


 「それでも女心って複雑でね……私はきっと、貴方に謝ってほしかったんだと思う」


 膝を突いた将英の傍に、早希も同じようにしゃがみ込む。将英の広い肩に両手を添え、語り掛けるようにゆっくりと唇を動かした。


 「でも結局、何も言わずに貴方は──まさくんは出ていってしまった。私も何も言えなかったし、言ったとしても言葉が足りなかった。出ていく貴方を止められなかった。空回りしたって言うのかな、あの時は」


 私もまだまだだったってことね、と微かな笑みを含んだ声で続ける。


 「──違う!」


 もう早希は怒っていない、そう麗が思ったと同時に将英がえる。


 「俺がおろかだっただけだ! お前は何も悪くない! ……あの時、ちゃんと話し合っていれば良かったんだ。でも俺が弱かったから、お前にもっと嫌われてしまうのが怖かったから──」


 段々と語尾が弱々しくなり、最後の言葉は聞こえないほど小さくか細い。


 早希はそんな将英を黙って見つめている。瞳にはうっすらとだが、涙が滲んでいた。

 麗は二人に気付かれないようにリビングの片隅へ移動し、座り直した。


 昼寝から起きて少し経った頃、将英が訪ねてきたのだ。その顔は蒼白だったが、確かな意思を持って戻ってきたのだと思った。


 (……まだ時間がかかりそうだな)


 もしも麗が普通の子供なら、とっくにリビングを出ているだろう。


 早希だって子供に聞かせる事ではないのは百も承知だろうが、何も言わなかった。だから麗はこの場に居て、二人がどういう決断を下すのか見守っている。


 「それは違うよ、まさくん」

 「なんでだ……? 俺は早希に酷い事を」


 やおら将英は顔を上げ、子供さながらにふるふると首を振る。その瞳には、罪悪感がはっきりと現れていた。


 「さっきも言ったでしょ。私の言葉が足りなかっただけで、貴方は何も悪くないの。なんならお相子だよ、私達は」


 早希は眉尻を下げ、苦笑を浮かべる。その笑みに将英はなんとも言えない表情で見つめ、やがて溜め息を吐いた。


 「俺は、俺達は……また、やり直せるか?」


 その声はか細く、はかない。さすれば消えてしまいそうなほどの、小さな小さな声だった。心なしか膝に置いた手も震えている。

 早希はそんな将英の両手を握り、額に持っていく。


 「──やり直すんじゃない、築いていくの。私と麗が……まさくんと過ごせなかった日々を、これから」


 そう言うとゆっくりと目を閉じ、やがて開いた。

 握っていた将英の両手を解放し、早希はさながら少女のように頬を染めてはにかむ。


 「そう、だな」


 なんとも言えない表情をしたかと思うと、将英は自由になった両手で早希の身体を掻き抱いた。


 麗は両親のやり取りを何も言わずに、文字通りじっと見つめていた。これで八坂の家には平和が訪れる、そんな希望を抱いて。

 


 ◆◆◆



 「はぁ〜……」


 麗は部屋に入った途端、肺の中の空気が無くなるかと思うほど、限界まで息を吐き出した。


 「……疲れた」


 ぽつりと呟き、今日の入学式以降着替えていない服のままベッドにダイブする。

 ぎしりとスプリングがきしみ、麗の小さな身体を受け止めた。


 この部屋は「小学生になったから」と早希が与えてくれた、麗だけの部屋だ。唯一麗が一人になれる楽園と言っていいだろう。


 「本当に今日だけで色々と疲れた」


 天井の木目をぼんやりと見つめ、麗は静かに独りごちる。


 今日だけで何度となく嬉しかったり、うんざりしたり、忙しないほどの一日だった。

 美和──葵に出会えた事だけで充分すぎるほどなのに、今この時に将英が戻ってくるとは。


 戻ってきて多少嬉しい反面、早希以上にどう接すればいいか分からない相手だ。

 将英は毎日仕事三昧で、あまり家に帰ってこなかった。だからどう話し掛けたらいいものか分からないのだ。


 早希は明るい性格だが、思った事が顔に出てしまう節がある。麗はそれを見て何を言えば喜ぶのか、笑顔になるのか、この六年余りで理解していた。

 反対に将英は、どちらかと言うと寡黙な部類だろう。


 早希と和解した後、将英は麗に話し掛けようとしていた。けれど怒ったような、気難しい表情でこちらを凝視していたからか、反射的に目を逸らしてしまったのだった。


 (いや、あれはただどう接したらいいか迷ってた顔だな)


 落ち着いて考えてみると、一歳かそこらで離ればなれになってしまった親子だ。


 将英にとっても、麗はまだまだ可愛い一人息子。けれど、何を言えばいいか考えているうちにあの表情になってしまった、というのが関の山だろう。


 他人の感情の変化には、昔から聡い方だった。

 伊達に今世と合わせて三十余年生きていたほどではない、とつくづく思う。まして一度は人の親になった身だ。


 (仮にも父親なんだ、俺が逃げてちゃ何も始まらない)


 ひっそりと瞳に覚悟を宿し、麗は起き上がった。ベッドの傍の窓からは、空が茜色に染まろうとしていた。

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