68枚目 不安に蝕まれる前に

 さわさわと優しい風が、青く茂った樹々を揺らす。

 千秋の提案通り、遊園地を出て公園外をゆっくりと散策していた。

 麗の体調も考慮し、なるべく木陰を選んで進む。


「大丈夫ですか?」


 葵はこっそりと、前を歩く千秋と郁に聞こえないよう小声で言った。


「ああ、大丈夫」


 心配しているのが伝わったのだろう。麗は安心させるように葵を見上げ、にこりとはにかんだ。

 麗から人前では勿論、二人きりの時は普通の「一緒に遊んでくれるお姉さんと小学生」でいよう、と言われたのは数日前の事だ。


 やはり自分は、何かが無ければタメ口では話せない。

 そう麗に言うと、時々敬語とタメ口を混じえてではあるが、人前を除いて二人きりの時はある程度容認してくれている。


(私に甘いのは十分わかってるけど、それにしても)


 麗の足取りはふらついていないが、僅かに呼吸が乱れているように感じる。

 子供の体調は、自分が思っているよりもずっと深刻な場合がある。

 それを葵は百合伝いで、懇々とかれていた。


(こんな時、母さんみたいに医療の知識があれば……)


 何を弱気になっているのか、と頭の片隅では分かっている。

 前世の名残りなのか麗は少し身体が弱いだけで、もう少し時が経てば免疫も上がり身体能力も飛び抜けることだろう。


 苦しかったり辛かったりするのは今この時だけで、そこから先は普通に過ごせる、はずだ。

 葵は麗と繋いだ手にぐっと力を込めた。


「葵?」


 その強さに驚いたのか、葵の心の内を見透かされたのか、或いは両方か。麗はじっと葵を見上げた。

 麗のためにゆっくり歩いているが、足取りとは裏腹にその瞳だけは鋭い。


「麗くん、おんぶしよう」

「…………はぁ?」


 予想していた言葉とまるきり違ったのか、麗の呆れとも困惑ともつかない声が落とされた。


「さ、乗って」


 そんな麗の反応を無視し、繋いだ手を解いて麗の前にしゃがみ込む。


「いやいやいやいや、なんでそうなる!?」

「疲れてるんじゃ」

「んなわけないだろ!?」


 葵の言葉を最後まで聞かず、半ば被せるように麗はヤケになって叫ぶ。


「え、でも」

「これはな、ただの気疲れだ!」

「どっちみち疲れてるじゃないの。ほら、乗って」


 気疲れでもあなどってはならない。特に子供は、それが引き金になって体調面に及ぶのだ。


「遠慮願いたい」


 間髪入れずに麗が言った。


「大丈夫よ、今の私だったら貴方くらい。だから大人しくおぶられて」

「ええ……」


 仮にも今の自分が前世の妻におぶられるなど、プライドが許さないのだろう。

 けれど、そろそろ千秋と郁に追い付けなくなりそうだ。


 二人はずっと何かを話していて、こちらを振り向きもしない。麗を気遣ってか前の二人もゆっくり歩いているものの、早いところ追い付かなければ見失ってしまう。

 はぁ、と小さく葵は溜め息を吐いた。


「あ、葵?」


 呆れられたと思ったのか、焦ったように麗が目線の高さにある葵の肩に手を置いた。


「俺は本当に大丈夫なんだよ。どうしたらお前に伝わるんだ?」


 そうして、瞳を覗き込んでくる。

 丸く大きな黒目がちの瞳は、記憶の奥深くに根付いた和則とよく似ていた。

 本人だから当たり前だが、それでも段々と葵の知る大好きな人に近付いていくだろう。


「和則さま」

「……うん」

「貴方はずっと、ずっと……私と居てくれるんですよね?」


 あまり自分から多くを語る事のなかった葵の──美和みわの夫は、今こうして現代に転生し、同じ時の中を生きている。

 その事に感謝こそすれ、今の状況に自分が満足しているとも言えない。

 転生した和則は晩年の名残りか身体が弱く、同じ年頃の郁よりも小さいのだ。


 郁を見た瞬間、これが普通の男の子なのだと思った。

 まだ何にも染まっていないまっさらな心は勿論、幼いながら身体付きのしっかりした少年。

 麗は生まれた瞬間から前世の記憶を持ち、現代に転生しても尚、その身体は普通に比べてはかない。


 あの日、桜の樹の下で再開した時、舞い落ちる花弁はなびらさらわれてしまいそうで怖かった。

 だから、今ここで繋ぎ止めておかなければならない。

 愛しい人を、二度もうしなう事がないように。


「当たり前だろう」

「もう二度と、私の前からいなくなったりしませんよね?」

「ああ、俺はお前しか見ていない」

「じゃあ──」

「美和」


 尚も言葉を重ねようとしていると、柔らかく小さな手が頬に触れた。


「不安にでもなった?」


 麗は何かを耐えるように、何とも言えない表情で見つめていた。

 その柔らかい声音は、温かい手は、麗が生きているあかしだ。


 姿が変わっても、大好きな人の温もりがそこにはある。

 少し高い声音は、じんわりと葵のもろく壊れかけた心を癒していく。


「そうだ、って言ったら……呆れる?」


 じっと射抜く瞳から逃れたくて、恥ずかしさを悟られたくなくて、葵は目を伏せる。


「まさか。可愛いとしか思わない」

「っ」


 その瞬間、今度こそ顔に熱を持つのがわかった。


「そんなこと、昔は言ってくれなかったのに」


 寡黙だった前世と比べ、今世では思ったことをそのまま言葉にしてくれているようだった。

 その事に嬉しくなるが、少し複雑な気持ちにもなる自分がいた。


(なんで今、そんなことを言うのよ)


 行き場のない感情を、言葉を、どう処理していいのか分からない。

 愛しいと思うのも、ずっと一緒に居たいと思うのも、麗だけしかいないのに。


「言わなくても伝わってただろ」


 ふ、と笑う気配がして葵は顔を上げる。

 葵の愛してやまない優しい微笑みを浮かべて、麗が手を差し出した。


「さ、行こう。二人に追い越されてる」


 麗に促されて前を見れば、千秋と郁はギリギリ姿が見える所で待ってくれていた。

 差し出された手を取り、ぎゅうと力を込める。

 もう離れないというように、きつくきつく。


「そう、ですね……もう一度聞くけれど、疲れてませんか?」

「大丈夫だよ」


 麗も葵に返すように、同じくらい強く握り返してくれた。

 幼い身体のどこにそんな力があるのかというほど強い力は、葵の気持ちを察しているようで。


「葵は心配し過ぎなんだ、もう少し俺を信じてくれ」


 苦笑気味に微笑む麗が愛おしくて、こんな状況なのに「信じてくれ」という言葉が今は何よりも嬉しい。

 泣きたくなるような想いを、与えてくれる麗が愛しい。


「うん、信じてる。これからも……貴方をずっと」


 そしていつか、言葉以上の想いが届くように。

 今度は麗に導かれるように、千秋と郁が待つ場所へと並んで歩き出した。

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