82枚目 少しの猜疑心

「ただいま」

「ただいまー……って。なぁに、これ」


 麗を送り届けて急ぎ足で家へ帰ると、玄関先の靴箱の上に小さな紙切れがあった。

 千秋はさっさとリビングへ行ってしまったが、葵はそれに目を通すと、はぁと盛大な溜め息を吐く。


『お父さんとデートに行ってきます。夕飯は作ってあるから温めて食べてね』

『葵へ、帰ったら話があるから部屋に来なさい』


 一枚目は百合のもので、いつも通り夕飯の書き置きというのはわかる。

 携帯にメッセージをくれてもいいのだが、こちらの方がわかりやすいと思ったのだろうか。


 しかし、それ以上に不可解なのは二枚目の貴仁のものだ。

 乱れた筆跡はかろうじて読めるものの、何故貴仁の書斎に呼び出されるのかは分からない。


(何かやったかな……)


 貴仁に対して冷たい態度を取っているのは理解しているし、直そうと思っている。

 ただ、葵の中の本能が『この人は受け付けない』と警鐘を鳴らしているのだ。

 所謂いわゆる反抗期だと頭では分かっているものの、しばらくはこの態度が続く予感がどこかにあった。


「ま、聞けばいいわよね。何時に帰るかくらい連絡してくれるだろうし」


 行儀は悪いが、パタパタと足音を立てて千秋の後に続いてリビングに向かう。

 作り置きしてくれているのはありがたいが、凝り性の千秋のことだ。

 作り置きに加えて、千秋手ずから何品か作るのは目に見えていた。


「兄さーん」


 ひょこりとリビングのドアを開け、葵は顔だけを覗かせた。

 

「んん?」


 声に気付いた千秋が首を傾け、こちらを見る。正確にはちらりと髪が見えるだけだが。

 

「どうしたぁ」

 

 およそ普段の兄らしくない、いやに間延びした声が響いた。

 千秋の姿が見える位置までリビングに足を踏み入れると、図らずも喉の奥から小さな声が上がる。

 

「私も人のこと言えたもんじゃないけど……行儀悪いわよ」


 すぐさまリビングに行くから何事かと思ったが、ソファに深く身体を預けて傍のテーブルに足を投げ出した姿は、とてもじゃないが塵ほども「格好良い兄」の面影は無い。

 寧ろ前世での『傾奇者』の姿を彷彿とさせた。


「俺だって疲れる時はある」


 テレビすら付けていないリビングに、ぽそりと声が落ちる。


「……そう」

 

 その言葉の意図がなんなのか、葵には分からない。

 ただの比喩という場合もあり、それは考え過ぎなだけで本当に今日一日は疲れた、という場合もままあるのだ。

 

 極力理解しようと努力はしているが、この数日で千秋の心の一番深いところを見たのは一度だけ。

 泣きながら罪を償わせて欲しい、と許しをこいねがったあの日きりだった。


「──あの子」

 

 どういう言葉を掛けたものか葵が黙っていると、先程よりも更に小さな声が聞こえた。


「うん?」


 あの子とは誰だろう。考えながら、葵は千秋の隣りに座る。

 ソファのスプリングがぎしりときしみ、千秋の重みもあって葵まで身体が深く沈んだ。


「郁もだけど、あの家のメイド。なんかおかしくなかったか?」


 ぽつりと空気に溶けるほどか細い声がしたのは、どれほど経ってからだろうか。

 

「郁くんは普通の子でしょ。歌月さんは、うーん……少しお料理が下手みたいだけど」


 顎に手を添え、ゆっくりと今日の出来事を反芻はんすうする。

 

 多少の違和感があることは、正直なところ拭えない。

 しかし郁は普通よりも頭のいい子なだけで、それ以外はそこらにいる小学生となんら変わらないように感じた。

 もっとも、葵があまり年下の子を知らないだけという可能性もある。


 歌月は軽い応対を見聞きしていただけで、葵は直接的に話していない。

 ただ、ちらちらと千秋を見る瞳がどこか恐ろしいと感じた。


(怖そうだった、なんて言ったらそれこそ兄さんは混乱する)


 ここで馬鹿正直に言って、千秋を悩ませるのはあまり本意ではない。

 だから、葵は知らないふりをするのだ。

 意図して体面を『演じて』いれば、さすがの千秋でもそれに気付くことはないだろう。


「そういう意味で言ってるんじゃなくてだな……あー、なんて言うか」


 葵の言葉に疑いのひとつ無いのか、ガシガシと千秋が頭を搔く。

 どう言おうか考えているのか、千秋は改めてソファに頭を預けた。

 

(なんだろう)

 

 微笑んだ顔は勿論、悩んだり呆れたりといった表情や行動のどれもが、なぜかこの男にかかればさまになってしまうのだ。

 こちらが嫉妬してしまいそうな程整った顔立ちは、やはり前世の賜物なのだろうか。


「おい、今関係ないこと考えてるだろ」


 何を思ったか、千秋はぱっとソファから起き上がり床に座った。

 すると、自然と葵が見下ろす形になる。


(綺麗……)


 海のように深い色をした瞳は、時として美しいと思う。

 じっと見つめた事はあまり無いが、格好良いよりも美しいと思う異性は、今のところ千秋しか知らない。


 柔らかく弧を描く唇はほんのりと赤く、きりりと整った眉は男性的だがどこか妖しさを思わせる。

 

 意識していない時の葵の変化に目敏めざとく気付くところを除けば、ほとんどが完璧な男だ。


「……やっぱりバレた?」


 葵が誤魔化すように小さく舌を出すと、ふっと柔らかく笑う表情は昔から変わらない。

 それこそ今世に転生してから知った事だが、千秋は表情がよく変わる。


 昔は知らなかった事を知っていくのは、たとえ一度嫌いだった相手でも嬉しいものだなと思う。

 

「顔に出やすいんだよ、お前は」

「うぇ」


 くすくすと笑いながら伸ばされた手で頬を挟まれ、葵は情けない声を出した。


「……もう! って、前も似たようなやり取りしてたけど。私ってそんなに分かりやすい?」


 なんとか千秋の手から逃れ、葵は小さく呟く。


「和さまにだって言われた事ないのに。──お前は時々鈍い、とか何回も言われたけどそれくらいだし」

「鈍いとは言われてるのな」


 はは、と千秋が小さく吹き出した。


「ちょっと、笑わないでよ」

「すまんすまん。まぁ顔を見たら分かるんだよ、自然と」


 鏡でも見たら分かるかもな、と冗談とも本気とも付かない声音で言われると困惑してしまう。


 元来、千秋という男がお茶目な節はところどころにある。

 本人にどういう意図があるのか釈然としないが、千秋が言うならばそうなのだろう。


 今までもこの先も嘘を吐かないと言ってくれた男が、言葉を覆すはずがないのだ。

 そういう意味で葵は千秋を信頼しているし、前世の出来事以前に兄妹としての絆がある。

 

「でも兄さんがおかしいって場合もあるし」

「おい、そりゃあ心外なんだが?」

「……ふふっ」


 堪らず葵は吹き出した。

 こうして軽口を叩け合えるのは、やはり元が『血縁』だったからだと葵は思う。

 よそよそしさも無くなり、ただの兄妹として今があるのはひとえに繋がりがあるからだ。


「俺はずっと本音しか言ってないんだよ──本当に」

「それは知ってるから安心して。兄さんが思ってるよりしっかりしてるもの。……多分」

「多分なんて確証はないだろ、あってもお前の言う『しっかりしてる』度合いなんかミジンコくらいだ」

 

 未だ微笑んだまま怒っていない葵に安心してか、千秋も葵に釣られたように淡く微笑んだ。

 

「どういう意味よ」


 何か馬鹿にされた気もするが、この際小さなことは無視をするに限る。

 気にしていても後からこちらが疲れるだけだと、身を持って知っているのだから。


「よし、夕飯作るか」

「っ」


 立ち上がるついでに雑に頭を撫でられる気配に、葵は反射的に目を閉じて身構える。

 何も言わずとも、いつも通りの不意打ちだと分かっている。

 しかし、今回は一向にそれがない。


(あれ……?)


 おかしいな、と思いつつ葵はゆっくりと目を開けた。


「先に行ってるよ」


 にこりと微笑みを残し、千秋はリビングを出る。

 

「あ、うん」


 一人残された葵は、ぼんやりと何も映っていないテレビを見つめる。

 今までにもこういう事はあったが、それ以上に一瞬見せた千秋の表情がどこか悲しそうなのが気になった。

 この顔を少し前にも見た気がするが、思い出せない。


(えっと、あれは……)


 葵は可能な限り記憶の引き出しを探ろうとするが──


「ちょ、ちょっと待って兄さん! 母さんからの伝言!」


 考えるのは後だ。

 話としてはそう長くはないが、テレビの下に置いている時計を見るに、どうやら一時間近くが経っていたらしい。

 葵は百合の書き置きを千秋に教えるためにリビングへ来ただけだったが、知らずのうちに時間が進んでいたようだ。

 

 葵も慌てて千秋の後を追ってキッチンに向かう。

 

 パタパタと小走りで向かうと、丁度冷蔵庫を開けようとしているところだった。


「──あ、本当だな。でも野菜の余りがあったからサラダ作るか、腐らせるのも駄目だし」


 葵から紙を受け取って冷蔵庫全体を吟味したところで、千秋は野菜室からレタスときゅうり、トマトをひとまとめに取り出した。

 ついでに蕃椒醤コチュジャンに豚肉、玉ねぎを次々とテーブルに置く。


「さ、合間にもう一品作るから手伝ってくれ」

 

 先程の事が無かったかのように、さも楽しそうな表情で千秋が笑った。

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