81枚目 それぞれの償い

「──なぁ、葵はどう思った?」


 郁の家からしばらく歩いた頃、不意に千秋が声を掛けた。

 その背には麗が健やかな寝息を立てており、時折もにょもにょと小さく唇が動いている。


「どう、って?」


 こてりと葵は首を傾げる。

 千秋の言いたいことが、とんと理解出来ない。


「あー……なんだ、こう。おかしいとか、家の中に違和感はなかったか?」


 なんでもいいから教えてくれ、と続ける声音はどこかいていた。


「無いと思うけど。どうしたの」


 見た目も内観も普通の家というより豪邸だと思ったが、それだけだ。

 それを言ったとて、千秋の言う違和感とは違うのだろう。


(私からしたら兄さんに違和感があるんだけど)


 普段の千秋ならば『おかしい』なんて言葉は使わない。

 自分に正直に生きてきた事を知っているが、他人やものをけなすところは見た事も聞いた事も無かった。


「いや、なら良いんだ」


 ふいとそっぽを向き、歯切れ悪く呟く千秋にますます困惑する。


「変な兄さんね。昔も変だったけど……」


 前世では飄々とした口調に、傾奇者かぶきものを思わせる見た目から決して関わりたくもない、そんな相手だった。

 なのに、今世では兄妹だというのだから分からないものだ。


「今はもっと変になったわよね、優しすぎて気持ち悪いくらい」

「おい、そりゃあ聞き捨てならないな!?」


 すかさず千秋が突っ込みを入れる。

 背中で眠る麗が起きやしないか心配になったが、千秋の調子が戻ってきたようで自然と葵の口角が上がった。


「事実じゃない」


 でも、と葵は続ける。


「私は今の貴方の方が、ずっと人間らしいと思うわ」


 貴方、と普段は使わない言葉を言った事で不意に千秋が立ち止まった。

 千秋が数歩先を歩いていたため、後ろ姿しか見えない。

 しかし、葵が言おうとしている事に合点がいったのか小さく千秋の肩が揺れた。


「──前世では見た目も性格も嫌いだったし、正直関わりたくなかった。だけど、そういうのはもう抜きにして……今の兄さんが、私は好きよ」


 紡いだ言葉はすべて、嘘偽りない本音だ。それと同じくして、千秋も正直に自分の思ったことを打ち明けてくれる。

 千秋は『償いをする』と言った。


 それは前世、葵と麗を傷付けたお詫びなのだと言う。

 正直、葵はもう怒ってもいないし傷付いてもいないのだ。

 しかし、何度言ってもさせてくれと言って聞かない。


『これは俺なりのけじめなんだ』


 あの時の深海を思わせる瞳が、言葉にこそしていなくても確かにそう言っていたのだ。

 だから、葵は葵なりの言葉で千秋に『償い』をする。

 千秋が葵を傷付けたと同時に、あの時の「美和」は「緋龍」を傷付けた。


 千秋がどうあっても聞いてくれないというのなら、こちらも誠心誠意応えるのみだ。


(私も、結局は同じなんだから)


 千秋の前世の事を聞くまで、憎いほど恨んでいた緋龍に心の中で謝罪し、そして自分自身を恥じた。

 直接謝ろうともしたが、それは受け入れてもらえないと知っている。


 だから、千秋にも自分にも小さな嘘を吐いた。

 それは今世だけの話で、いつか受け入れてくれた時まで秘めておく。


(緋龍……貴方は、きっと誰よりも優しい人)


 葵に自身の前世を伝える事を躊躇し、しかし誠意を持って紡がれた言葉たちに嘘は無いと理解している。

 それ以上に、こちらを怖がらせまいと気遣ってくれた。

 心優しいその性格は、前世から形成されたものなのだろう。


 時として少しひねくれた言い方もするが、最後には笑わせてくれる。

 そんな関係が、千秋とこの先もずっと続いていくのは悪くない。


「──兄さんが何を思ってるのか知らないけど、あんまり抱え込むのは止めて」


 そこで言葉を切り、葵は千秋の目の前に回り込む。


「折角こうして転生したんだもの、楽しまないともったいないわ」


 にっこりと微笑み、千秋を見上げる。自分よりも深く青い瞳が、わずかに細められた。


「そう、だな」


 千秋は何か言いたそうに口を開いたり閉じたりしていたが、感情はそのたった一言に込められた気がする。


(兄さんに……ううん。緋龍に悲しそうな顔なんて似合わないもの)


 葵の知っている緋龍は、どんな時も飄々としていた。それがその男だと思っていたし、その悲惨な過去を知るまではただの遊び人だと思っていた。


 しかし今までの千秋の言動は誰よりも気を遣ったもので、その人に合った言葉を選んでいると分かる。


 現に葵の放った言葉の裏に気付いているから、千秋は何も言わず頷いてくれる。

 時として人を疑う事も必要だが、今世での生活を楽しまなければ意味が無いのだ。


 そうした言葉を直接言わずとも伝わるのだから、千秋は人間よりも人間らしい。

 こちらが心配になるほど普段から人を気遣っている兄に、葵も少しずつ償っていかなければ割に合わなかった。


「さ、そうと決まれば帰るわよ! 和さま……麗くんを送らなくちゃ」


 すやすやと眠る麗を見つめ、葵は少しだけ声音を落とす。

 深い眠りの中にあるのか麗が起きる気配はないが、あともう少しだけこの少年の寝顔を見ていたい。

 姿こそ記憶の中のものとは違うが、その心や眠る表情は紛れもない前世の夫のものなのだから。


「そうだな。そろそろ暗くなるし急ぐか」


 葵に釣られたように千秋も声を落とした。

 空では太陽がゆっくりと彼方に沈もうとしている。


「う……んん」


 二人の声に気付いたのか、けれど瞼は閉じたまま麗はもそりと顔をそむけ、小さく唇を動かす。


「あお、い……」

「っ」


 葵は小さく目を見開いた。

 ほにゃ、と幸せそうに笑んだ表情はあまりにもいとけなく、それ以上に愛おしい。


 ともすれば、この寝顔をずっと守りたいという得も言われない感情が湧き起こる。

 千秋から麗のことは見えていないが、葵の表情から何かを悟ったのだろう。


「……やっぱり遠回りして帰るか。少し遅くなったって言えば大丈夫だろうし」


 千秋なりにではあるが、麗のことは十二分に考えてくれているようだ。

 家に着くまで起きなければこのままだが、途中で起きたら葵と話をさせるつもりなのだ。


 今世では兄妹であるが、自分ばかりが仮にも前世の妻を独占してしまっては夫であった麗とてやるせないだろう。


「そう、ね」


 そんな想いが葵にも感じ取れ、小さく首肯する。

 麗とは年の差こそあれど、ゆくゆくは前世と同じく夫婦になる運命だ。

 それまでの短くはない時間、どれほどの困難に直面するかは分からない。

 ただ、傍には千秋が居る未来が見える。


 そうならばどれほど頼りになるだろう。

 しかし、そこまで面倒を掛ける気は毛頭なかった。


 千秋の今世の人生は千秋のものだが、償いをすると言って傍に居る可能性も否定出来ないため、いつかちゃんと言わなければいけない。

 しっかりと葵の口で、誠心誠意伝えればきっと聞き入れてくれる。


(それまで後どれくらいか分からないけど)


 必ず訪れる運命に、その時の自分は対応出来るだろうか。

 千秋の言葉に負けることなく、自分なりの言葉を伝えられるだろうか。


(いや、考えても仕方ないか)


 先程、千秋に「今を楽しまなければ勿体ない」と言った。

 それを早々に自分だけが破るなど、それこそ本末転倒だ。


 葵は数歩前を歩く千秋の後ろ姿を、麗の小さな背中を見つめる。

 あと数年もすれば、麗は大人の男のそれになるだろう。

 

 それまでに葵は隣りに立つのに恥じないよう、自分を磨きつつ今世での生活を楽しまなければいけない。

 折角現代に転生したのだ、その意義は十分に理解している。


(……よし)


 葵は千秋の隣りに小走りで駆け寄った。

 その表情は柔らかな夕日に照らされ、ほんのりと色付いていた。

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