80枚目 金城家の使用人
「すまん、遅くなった」
半ば笑いながら部屋の扉を開け、千秋が姿を現した。
「……は? 遅いんだけど」
葵はじとりと千秋を睨む。
戻ってきた事に安心すると同時に、葵は呆れ返るしかなかった。
(どこの誰がお菓子作りを教えるだけで、こんなに時間が掛かってるのよ)
窓から見える空はやや薄暗くなっており、太陽は月に姿を変えていた。
千秋の腕前なら、ものの一時間で戻ってくると予想していたのが、結果的に三時間近くが経っているのだ。
「だからごめんって謝ったろ」
「何よ、その言い方」
やんわりともう一度謝罪の言葉を口にされるも、何かが腑に落ちない心地がして、葵は更に苛立った口調で言った。
「そんなに拗ねるなよ。愚痴なら家に帰ったらいくらでも聞いてやるから」
ぽんぽんと頭を撫でられた事に加え、子供扱いされたようで胸の奥にふつふつとした怒りが溜まる。
(確かに私はまだ子供だけど。でもそんな言い方しなくてもいいじゃない!)
千秋が前世で生きた年月がどれほどなのか分からないが、今世ではたった三年の差しかない。
親が子にするように頭を撫でられ、諭される事が葵はあまり好きではなかった。
(ああもう、早く帰って全部ぶちまけたい……!)
煮えたぎる怒りを葵がどうにか沈め込ませている間に、千秋はそっと麗の肩を叩いた。
「悪いな、麗。もう帰ろうか」
「ん、……うん」
小さなテーブルに両肘をついたまま、麗はうつらうつらと船を漕いでいる。
丸く大きな瞳がとろんと
麗の中身は大人だが、その見た目は子供のそれなのだ。
抗えない睡魔と戦うのに精一杯で、千秋に声を掛けられているとほとんど気付いていないだろう。
「随分待たせたから眠いよな」
千秋は苦笑しつつ、麗を起こさないよう抱き上げる。
「よ、っと……じゃあな、郁」
いつの間にか立ち上がっていた郁に向け、千秋はそっと声を掛けた。
「うん、また来てね千秋にぃ。葵ちゃんと麗くんも!」
やや寂しそうな表情を見せたものの、すぐに太陽のような笑みで両手を振った。
郁の行動にほんのりと葵の心も温かくなる。
そして、それと同時に葵の心の中に一度浮かんだ疑問は、瞬く間に霧散していく。
(郁くんはやっぱり……ううん、兄さんがいつも通りなんだからなんともない。転生はしていない。私の思い過ごしよね、きっと)
郁は出会った時からずっと、小学生らしい口調や態度なのだ。
少し大人びた顔付きをしたり、背筋が寒い心地がしたのは葵の気のせいだ。
そもそも、本人から聞いてもいない事をあれこれ自分が詮索していいものではない。
千秋や麗には言わず、自身の胸に秘めておくに限るだろう。
それが一番平和な解決になるのであれば、葵はそれで良かった。
「──今世では何事もなく平和に、そう誓ったじゃないの」
葵が前世の記憶を思い出した日の朝、ずっと胸に刻んでいる言葉を口の中でぽそりと呟く。
ここで自分がいざこざを起こしてしまえば、それこそ全てが崩壊してしまいそうで怖かった。
「葵」
「っ!」
不意に名前を呼ばれ、びくりと肩が跳ねる。
「どうした、帰るぞ?」
見れば千秋がドアノブに手を掛け、部屋を出ようとしていた。
「わ、分かってるわよ」
自分が呟いた言葉を隠すように、葵はわざと口調を荒らげる。
「だからそんなに拗ねる……げっ」
そんな葵の態度に再度呆れた声音で言いながら、千秋はドアノブを回す。
開けると同時に、素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの」
ひょいと千秋の後ろから覗き込むと、そこには歌月がいた。
まるでこちらが部屋を出るのを待っていたかのように、にっこりと微笑みを浮かべて佇んでいる。
「あ、お邪魔しました」
「え、おい」
葵は後ろからぺこりと小さく頭を下げた。
そこから動かないでいる千秋の背を渾身の力で押し、部屋の外へ出る。
「はい。また、お待ちしておりますね」
すれ違いざま、歌月のしっとりとした柔らかな声が
それは果たして葵に向けられたものなのか、千秋に向けられたものなのか、新たな疑問が頭をもたげる。
(なんだろう……歌月さんの雰囲気って、あんな感じだったっけ)
屋敷の敷地内のだだっ広い庭を歩きながら、葵は考える。
迎え入れてくれた当初は、少しそそっかしいが元気な使用人、というのが歌月の第一印象だった。
しかし、先程の歌月はどこか妖艶な色香を滲ませていたように感じる。
(人ってあんなに雰囲気が変わるものだったっけ)
この短時間の間で何があったのか、葵は考えようとして止めた。
(ううん、あまり人を疑うのも駄目よね。それに、あれが歌月さんの素の顔かもしれないし)
前世、少なくない人の悪意や善意に触れてきたからよく分かる。
加えてその人の人となりを否定している気がして、葵の良心が痛むのだ。
(待ってますって言っていたし、時間があればお邪魔しようかな)
年が離れていても女同士、何か分かり合えるものがあるかもしれない。
やや弾んだ心持ちで、これから先の事を考えながら葵は千秋と共に郁の家を出る。
とうとう襲い来る睡魔に抗えなかったのか、千秋の腕の中では麗がすぅすぅと小さく寝息を立てていた。
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