11. 私の知る事になる全て
79枚目 一抹の不安
「……兄さん、遅いわねぇ」
「歌月ちゃんはお料理が苦手だから、千秋にぃも困ってるのかも」
聞けば歌月は大の家事下手だと言い、特に料理が苦手だという。
唯一出来る事と言えばお茶を淹れる事くらいで、葵たち三人に出された紅茶も今日の為に歌月が選別したらしい。
「にしても二時間はとっくに超えてるわよ。あの兄さんならきっと簡単なものを教えてるはずだし……そろそろ日が暮れちゃうわ」
ちらりと葵は部屋の窓を横目で見る。
ここは南向きの部屋なのか、窓からは温かい日差しが降り注いでいた。
ここへ来たのは昼過ぎを少し過ぎたくらいだが、今この部屋にある時計の長針は十六時になろうかとしている。
(なんだろう、嫌な予感がする)
いつもとさして変わらない、何気ない空を見つめ、葵はぞくりと背筋に寒気が広がるのを感じた。
この場に千秋がいないというのもあるが、麗がしきりに「帰りたい」と言うのも引っ掛かる。
そもそも、普段はその見た目通りに
何かを警戒しているような、そんな予感がしてならなかった。
(兄さんは私のことを鈍感だと言うけれど……そこまで子供じゃないわ)
自分は千秋ほど勘がいいという自覚はなく、これといって気が利く方でもないと思う。
人の機微に誰よりも敏感で、そうでもしないと前世を生き抜けなかった
笑顔の仮面を貼り付けなければ、人は味方してくれないと前世で学んだ千秋に比べて。
(いつまで妹だと思ってるのか分からないけれど)
私は強いの、と誰にともなく小さく呟く。
千秋が前世で一度は怖い目に遭わせた女性が、今世では血を分け合った妹になった。
どんな思いで今まで葵と話していたのか、打ち明ける時にどれほど勇気がいったか、それは本人にしか分からない。
蝶よ花よと慈しまれ、麗──
そうした過去も現在もひとまとめに、葵はただのどこにでもいる『普通の』女子高生として、今この場に居る。
ならば今自分が成すべき事は何か、葵はとっくに理解している。
(兄さんが戻って来るまで時間を稼がないと)
葵の隣りには麗が座っており、その表情は傍目から見れば普通だ。しかし、葵にしか分からない静かな怒気が、麗から発されていた。
表面上こそ行儀良く座っているが、イライラして堪らないといったふうだ。
それもこれもこの豪邸に入ってからだと思うと、違和感を持たない方がおかしい。
「ねぇ、郁くん。この部屋にいっぱいあるけど、コレってなぁに?」
葵は手近にあった、キャラクターもののフィギュアを郁に見せる。
そこらに居る男の子らしく、部屋の中にはあちこちに戦隊ものやキャラクターもののグッズがあった。
葵の手に収まるものはその中の一つで、葵の知る限り日曜日の朝にやっている特撮ヒーローものだろう。
「えっとね、ドクターレッドだよ! 悪いヤツをぶっ飛ばしてくれるんだ!」
「そ、そう……」
いつもの可愛らしい笑顔で、郁の唇から「ぶっ飛ばす」という単語が出てきた事に、葵は少なからず
庶民がどれほど金を積んでも買えない家に住んでいようと、煌びやかな装飾品や沢山のオモチャに囲まれていようと、郁は至って普通の小学生なのだ。
(──私、馬鹿なことを考えていたのかも)
自分や千秋は勿論、麗とも違う純粋な男児。
昨日、偶然にも千秋が遊園地に来ており、その一瞬をついて見せた郁の表情は幻だったのだ。
千秋と共に郁の家へ来たのも、麗に会うためだけではなかった。
確かに家が豪邸というのは予想外だったが、ただ自分の中の『答え合わせ』のために着いてきた、というのも理由の一つだ。
果たしてその結果がどうあれ、葵はこのまま郁と目を見て話せるのかは分からない。
仮に予想が当たっていたとすれば、一体郁の前世が誰なのか、検討も付かないのは必須だ。そして予想が外れていても、小さな子供を疑った罪悪感に
(兄さんが戻って来たらすぐにお暇しよう。それから、今日までの事は忘れないと)
密かに葵が決意すると同時に、郁の表情が
「っ、葵……! もう千秋を──」
咄嗟に出た麗の言葉は、葵の耳には届いていない。
「麗くん……帰っちゃう、の?」
どくりと心臓が脈打った。
問われた麗だけならず葵も、背筋に冷たい汗が伝う。
「うっ……」
至って普通の、なんの変哲もない言葉にこれほど嫌悪感が増すだろうか。
ただの小学生相手に、これほど怖いと思うだろうか。
「いや。まだ大丈夫、だけど……?」
言いながら葵の変化に気付いたのか、麗がそっと手を握ってくれる。
(和さま……)
自分を安心させるための行動に、ほんの少し心に余裕が持てた。
それと同時に冷静にもなる。
(馬鹿な考えって思ったけど、やっぱりこの子は)
前世で一度、どこかで関わりのある人間なのだろう。
そうでなければ、ただの言葉にここまで怖気が走るはずがない。
(本当に兄さんてば、いつまで掛かってるのよ。早く、来て欲しいのに)
葵は今か今かと部屋の扉にそれとなく視線を向ける。
普段ならば整い過ぎた顔とお節介な性格に鬱陶しくも思うが、今ばかりは千秋の顔を見て安心したい。
(まだ、かな)
葵はそっと重ねられた麗の手を握り返す。
窓から見える太陽が、ゆっくりと沈もうとしていた。
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