46枚目 和則の隠し事

 寒く厳しいある日の冬。庭の桜の枝には、桃色の花弁はなびらの代わりに雪が降り積もっていた。

 いつも夫婦が寝起きする寝間で、美和は可愛らしい女児を出産した。


 自身の腕に抱いて初めて顔を見た時、わけも分からず涙が溢れた。それと同時に、小さな赤子の「母親」になったという事をやっと実感した。

 和則は美和以上に涙を流して喜んでくれた。親になるのだから、と何度言っても泣く癖は治らないらしい。


 美和と一緒になってからというもの、和則は初めて会った時が嘘のように涙もろく感情豊かになった。

 そんな和則を見て愛しさばかりがつのるのはいつもの事だが、この日は喜びもひとしおだった。

 待ちに待った我が子が生まれ、母子共に何事もなくこの日を迎えられた。

 それだけで和則にとっても美和にとっても嬉しく、喜ばしい思いが強く表れたのだろう。



 赤子が産まれて七日が経った。

 庭に咲いている桜の樹のように強く生き、誰に対しても優しい子に育つように、赤子には「さくら」と名付けた。

 まだ小さくてはかない命を二人で育む事は大変だが、楽しくもある。


 一日を重ねるうちに桜は様々な表情をした。

 産まれてしばらくはまだ目が見えていないというが、時々美和を見てにっこりと微笑むさまが可愛らしく、つられて笑顔になった事は少なくない。


 赤子は夜になると泣くから気を付けろ、と母から言われた。しかし今のところ夜泣きをした事は無く、我が子ながら早くも肝が据わっていると思う。


 (きっと桜は……強い子になるわ)


 親心ながらそう思った。

 桜が生まれてから、美和はいつもの日常に戻りつつある。

 毎日の炊事洗濯や掃除は勿論だが、そこに桜の育児も加わった事で常から穏やかだった日常が、時として嵐のように慌ただしくなる事もしばしば。


 それでも美和の毎日は充実しているといえる。一日を過ごすうちに新しい発見があるのだから。

 そして、美和にとって嬉しいような、困惑するような事が数日に一度あった。


 「美和、美和」


 和則がぎゅうぎゅうと美和を腕に抱き、何度も名前を呼ぶ。


 (あ、私ってばまた……)


 うつらうつらとしていた美和の意識が現実に引き戻される。

 桜が産まれた日を境に自分に構ってくれなくなったからか、数日に一度……早ければ一日に二度、美和が一息ついたのを見計らって和則が甘えてくるようになった。


 和則の妻である前に、桜の母親でもある。

 しかし美和が最優先すべきは桜だ。和則を構ってはいられない、というのが本音なのに本心では美和も和則と過ごしたい、という思いがあった。


 最初こそ「子供みたいなことを」と思ったが、これがどうしてこばめないのだ。

 和則の腕に抱かれると温かく、心地よくて夢うつつになってしまう事も少なくなかった。

 けれど、数日に一度の頻度とはいえ三十分ほどこうされていると少し恥ずかしい。


 家の中には──ここから少し離れているが──桜が小さなしとねですやすやと眠っていた。

 今はまだいいが、物心が付く前に止めさせなければと思う。


 「和さま、苦しいです」


 遠慮がちに言葉を零し、和則の鍛え抜かれたたくましい胸板を突っぱねる。


 「すまん、もう少し。……あと五分」

 「それはさっきも聞きましたし、三回目です! そろそろお夕飯を作らないとなんです、離してください」

 「今度は本当に五分経ったら離すから。それまで、美和……」


 そう言うと、ぎゅうと先程よりも強く抱き締められた。

 和則は日々鍛えているからか、普通の男子に比べて体格の差は歴然としている。

 そんな和則にこうされては、容易に動くことはできなかった。


 「もう少し俺の我儘わがままを聞いて」


 そして尚たちの悪いことに、耳朶じだに吹き込むようにささやいてくるのだからたまらない。


 「も、もう……五分経ったらすぐに離してくださいね?」


 甘い声に逆らえるはずもなく、照れ隠しも込めてそう言うしかない。だから毎回美和が根負けしてしまう。


 「ん」


 すり、と和則がうなじに頬を擦り付けてくる。時々甘噛みされているのが分かるが、甘く囁いてくる事に比べたら可愛いものだ。


 (猫か子供か。はたまた違う動物かしら)


 ぼうっと虚空を見つめ、物思いにふける。

 こうしていると子供が二人できたようで、複雑な気持ちだ。けれど、ほとんど毎日家族のために毎日頑張ってくれている和則の好きにさせたかった。


 (私もまだまだ甘いわね)


 和則に気付かれないよう、短く息を吐く。

 先程はああ言ったが、和則が言ったことのすべてを聞き入れてしまうほどほだされている自覚がある。


 頭では分かっていても、身体は違う反応を示すのだ。

 今の場合は離れ難い、といったところだろうか。

 後ろから抱き締められた体勢だからか、着物越しから和則の温もりがじんわりと伝わってくる。


 「……和さま?」


 それまで大型動物のようにじゃれていた和則が、すっと身体を離した。


 「面倒臭いお客が来たみたいだな」


 首だけを玄関の方に向け、ぽそりと呟く。


 「え?」


 美和は一瞬目をみはった。

 隣の家は近くても歩いて十分の場所にあるから、その家に住む女性だろうか。しかし、そうすると美和の名を呼んでくるはずだ。


 (私は人とあまり交流がないし。もしかして和さまのお客さま……?)


 女学生時代の友人らとは、ほとんど疎遠になっている。

 和則と共に過ごすようになって仲良くなった人間といえば、隣家に住む女性だけだ。

 ややいぶかしみつつ耳を澄ませると、何やら玄関先がざわざわと騒がしい。


 「美和はここで待ってな」


 そう言って和則が立ち上がり、玄関へ行こうとする。


 「いえ、私も行きます! お客さまならお出迎えを」

 「いいから桜を見ててくれ。すぐ終わるから」


 しないと、という言葉は半ば遮られる。


 「はい……」


 少し焦ったような、怒っているような声音に違和感が抱きつつも釈然しゃくぜんとしないまま了承した。

 そんな美和の頭を一度くしゃりと撫で、和則は今度こそ足早に玄関先へ向かう。


 誰が来たのか、という疑問を残して美和は桜が眠る隣の間へ膝を進めた。

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