45枚目 妻として、親として

 その日から、いや、これまで以上に和則が優しくなった。

 元々何かを進んでやってくれるが、腹に子が宿ったと知るや否や、多少軽いものを持つ事すらさせてもらえなくなったのだ。


 数日前に和則が呼んだ医者によると、小さな命が宿ったのはふた月ほど前だという。

 美和にはまだ親になるという実感がない。だというのに、和則は美和以上に親の自覚をしているようだった。


 毎日のように美和の薄い腹を何度も撫でては「早く出ておいで」と言う声音や表情は、父親のそれだ。

 今から過保護になりそうな勢いを出しており、その光景を想像すると微笑ましく、自然と頬が緩む。


 まだ男か女かも分からないが、きっと和則ならばどちらでも可愛がってくれるだろう。

 自分が与えられなかった愛情を、その子にめいっぱい与えてくれるだろう。


 そういう意味では産まれてくる子が楽しみでもあった。

 腹の中で十月十日はぐくんだ頃には、可愛らしい我が子に会える。


 その日を信じて、美和は今日も一日を過ごす。

 しかし、和則に自身の仕事を任せてしまう。何度言っても「俺がやる」と言って聞かないのだ。


 (これは……産まれた頃が大変な事になりそうね)


 くすりと苦笑すると、美和に変わって庭にある物干し竿に洗濯物を干していた和則が振り向いた。頭を白い布で覆うように巻いている。


 「なんだ、いきなり」


 そんなにおかしいか、と紡がれる言葉も見つめる瞳も、和則のすべてが優しい。


 「いえ、違うんです。ただ……幸せだなって思って」


 言葉に出すと恥ずかしく、「すみません」と一言言ってからふいと視線を逸らす。


 「は、──だろ」


 しばらくして小さな呟きが落ちた。何を言ったのか気になって、和則に視線を向ける。

 和則は片手で顔を隠し、ほんのりと頬を赤く染めていた。心なしか耳まで赤いように思う。

 そのさまを見て、今度は美和が和則を愛しく思う番だった。


 (時々可愛くて、格好良い……私だけの旦那さま)


 心の中がぽかぽかと温かくなるような、この世の何ものにも変え難いような、そんな感覚が頭をもたげる。

 けれど、そう考える前に限界が来てしまいそうだ。縁側で一人で座っていると居心地が悪く、自分だけが楽をしているのは耐えられない。特に自分以外の誰かが家事をしているのが。


 医師が言うには、沢山動いて食べることが赤子の健康に良いと聞いた。

 少しも動けずにやきもきしていた所だ。


 「あ、あの! やっぱり手伝います……!」


 何か話題を変えたくて、自分の仕事は自分でやりたくて、美和は庭へ下りようとする。けれど、和則が決まって言う言葉はこうだった。


 「な、これくらい俺にだって出来る!」

 「ええ……」


 和則は自信たっぷりに啖呵たんかを切ったものの、美和から言わせれば何も出来ていなかった。

 物干し竿に干された洗濯物は、しっかりと水が切れていないのかポタポタと水滴が落ちている。


 それだけならばまだ良かったが、洗濯物が一向に減っていないのだ。

 時々どちらからともなく口を開いて短い会話を重ねているが、会話をしていなくても手際が悪いように思う。


 (そうだわ、これなら……)


 その時、ある考えが浮かんだ。

 和則と共に家事が出来る方法、と言っていいか分からないが、この条件ならばきっと承諾してくれるだろう。


 「でも……二人で片付けた方が早く終わりますよ? 手伝ってくれるのもありがたいんですけれど、和さまが側にいないと心細くて」


 ちらりと和則を盗み見る。すると、乱雑に洗濯物を未だに水が張ったたらいに突っ込んで、こちらに歩いてくるところだった。


 「そう言われたら仕方ないな! けど、重いものは俺が干すから」


 びしりと人差し指を突きつけられる。

 美和からしてみればどれもが軽いが、そこは和則なりの気遣いなのだろう。

 妥協だきょうしてくれてほっとした反面、美和の仕事が最終的に増えてしまうが、それで良かった。

 一生懸命に手伝ってくれることが、美和を気遣ってくれることが、何よりも嬉しいのだから。


 少し口下手なのが玉にきずだが、その実心優しい和則が好きだ。

 自分でやると言って聞かない、時々子供のようになる和則が愛しい。

 何気なく話していても、言葉の節々から優しさが伝わってくる。


 祝言を挙げてあまり時は経っていないが、これから好きな人と年を重ねていくと思うと、胸がおどる心地がする。


 「ほら」


 躊躇ためらいがちに和則が片手を差し出す。縁側から庭に出るまでに踏み石があるため、転ばないようにという配慮だろうか。


 「ありがとうございます」


 にこりと微笑み、ありがたく和則の手を取って庭に出る。


 「いいお天気ですね」

 「……そうだな」


 空は絶好の洗濯日和と言ってもいいほど澄み渡っている。はるか彼方かなたまで雲ひとつなく、晴天だ。


 けれど、この空とは裏腹に美和には一抹いちまつの不安があった。

 近いうちに何かが起きてしまうような、そんな気配がしてならないのだ。

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