47枚目 嵐の前の静けさ
玄関先では和則と複数の知らない声が聞こえる。その声音は全員が低く、少し前から懇意にしている男たちだと予想した。
(私が出ては駄目って、何かあるのかしら……でもお仕事のお話なら仕方ないわよね)
すやすやと眠る桜を見つめ、思う。
和則の勤める仕事先は、ここからほど近い道場だ。
まだ桜が腹の中にいた数ヶ月前、和則と共に街を歩いていた時、娘が暴漢に襲われそうになった所に遭遇したのが発端だった。
和則は元来、正義感の強い男だ。まだ身重だった美和に短く「待っていろ」と言い残し、和則が娘と暴漢の間に割って入った。
程なくして暴漢は慌てて逃げ帰り、何かお礼をさせてくれ、と娘は言った。
和則は丁重に断ろうとしたが、それでは割に合わない、と言うので娘の生家に招かれる事になったのだ。勿論美和も一緒に。
◆◆◆
「こちらです」
冬の太陽の光を浴びて、黒々と輝く屋根瓦。軒先には立派な家紋が左右に一つずつあり、屋敷全体を囲むように塀が張り巡らされている。
助けた娘──
「和さま、ここって」
「あー……見た事あるな。思い切り見た事ある」
はは、と乾いた笑いを漏らし、和則が呟いた。
山吹一刀流──かの
和則が幼い頃に通っていた、というのを祝言を挙げて少しした後に聞き、それを美和は覚えていたのだ。
屋敷の中に入ると、玄関口からでも稽古に打ち込む声や
「そこ、甘いぞ! もう一度始めから──」
大広間が近くなると竹刀を打ち交わす音に混じって、落ち着いた低い声がはっきりと美和の耳に届いた。
(すごい……)
大広間には、師範らしき壮年な男が一人、門下生であろう男たちに
よく通る声音は年を感じさせないほど若く、しっとりと耳に残る。
男が門下生を見る目付きは鋭く、どこか得体の知れない
「お父さま、お客さまです」
妙子がゆっくりとした声で言った。
それが合図のように男はパン、と手を叩く。
「──よし、休憩に入るぞ。俺が言ったことを身体に覚え込ませろ」
「はい!」
老齢な男が声を発すると、野太い声がそこかしこから響き渡るさまに、圧巻してしまう。
(まるで……芝居を観ているみたい)
道場となっている大広間の入口から覗いているだけだが、ぞくりとした得も言われぬ感動に襲われる。
美和は芝居すら
「……」
終始ぽかんと見入っている美和を、和則が優しげな瞳で見つめる。
門下生らに手短な挨拶を済ませると、男がこちらに向けて歩みを進めてきた。
その表情は
「っ……」
美和は思わず、和則の身を包む「べすと」という外国から来た服の裾を掴んだ。
そんな妻を安心させるように、裾を掴んでいた手を離され、和則の大きな手に握り直された。
まるで「大丈夫だ」と言っている気がして、ほんの少しの
あと少しという距離まで男が近付いてくると、遠くで見た時よりも威厳と貫禄があった。見る者を
(お邪魔をした、かしら……)
本来、美和のような女子が来る場所ではない、と自負している。
そうでなくても、今だけは身重な身だ。腹に子を宿している人間が来る場所ではない、と怒られるかもしれない。
美和が人知れず
「和則、しばらくぶりだなぁ! 元気にしていたか?」
壮年の男は和則の姿を視界に入れた途端、それまでの険しい表情が嘘のように、ぱぁっと花開いたような満面の笑みを浮かべた。
(あら……?)
美和は別の意味で首を傾げる。
にこにこと微笑する男は、先程まで見ていた人間だろうか。
表情だけでなく声すらも、何かの小動物に対するようなそれだ。
(後で謝らないとだわ)
少しでも怖いと思ってしまった自分を、心から反省する。
「お久しぶりです、師匠。改めて報告するのもなんですが……俺の妻です」
和則にそっと肩を抱き込まれた。
「美和です」
慌てて短く言葉を継いだ。ぺこりと軽く頭を下げる。
「そうか、お前も所帯持ちに……」
しみじみと言った男の
「山吹
「え、えっと……」
美和は両親から自分の夫以外には決して触れるな、触らせるな、と教えられている。
どうしたものか、とおろおろしていると横から腕が伸び、則房の手を掴んだ。
「師匠。
にっこりと、
ギリギリと右手に力を込めているのか、手の甲に血管が浮いている。
「はっはっはっ! お前がそんな顔をするなんてなぁ! ちょっと
そんな和則をものともせず、則房は快活に笑った。
笑うと更に皺が寄るからか、その表情だけを見ると
「……貴方に比べれば、でしょう。俺はもう三十近いんですよ、いつまでも青くはありません」
少し拗ねた口調で和則が
「すまんすまん、口が滑った」
笑みを形作ったまま、和則の頬が僅かに引き
「──どうだ、和則。久しぶりに来てくれたのだし、俺と手合わせしていくか?」
今にも怒り出しそうな和則とは対照的に、則房は柔和な笑みのまま背後を指さした。
「いや、今日は……」
「嫁御どのも見たいだろう?」
「師匠!?」
和則の言葉を最後まで聞かず、今度は美和に話が振られる。
にっこりと人好きのする笑みを向けて言われると、段々と和則の剣技に興味が湧いた。
幼少の頃から毎日のように通い詰め、剣術の鍛錬に
あれから二十年近くの年月が経っているとはいえ、美和が知る限り和則が鍛錬をさぼった事はない。
暇さえあれば、庭で一人木刀を持って素振りをしているような人だ。
そんな和則と手合わせする相手が、山吹一刀流師範であり、和則の師匠である則房となると「見たくない」という方が酷なものだった。
「見たい、です」
「嫁御どのもこう言っていることだ。やるだろう?」
則房がちらりと和則を見る。
和則は片手で顔を覆い、はぁと深い溜め息を吐いた。
「美和の頼みじゃ断れないな……」
ほんの少し諦めたような、降参したような、そんな声音で和則は了承した。
◆◆◆
(あの時は格好良かったけれど、何も本当に働かなくても……)
則房との手合わせは、ほんの僅かな隙を見せた和則の負けという形で終息した。
それが悔しかったのかは分からないが、和則が山吹一刀流で働くと言ったのが、その二日後。
目下は門下生として、時には師範のように教えを
近い未来、ゆくゆくは師範として、と打診されているという。
それでも今はほとんど給金が無いに等しく、和則の給料で食べていけるかどうかと言われると
(お金はまだあるけれど……)
昨年、両親から祝言を挙げた時の祝い金が残っているから、美和としては働きに出なくてもいいと思う。
そう何度か言っても、「美和の力になりたい」と言って聞かなかった。
頼もしい夫だが、数年の間は両親からの祝い金や貯金を崩して暮らしていける。
可愛い一人娘の心配をしてか、父から毎月のように金が送り込まれてくるのだ。
(お父さまやお母さまは心配しすぎなのよ。祝言を挙げただけで、あんなに沢山のお金……。それに、今月だってお金をくれて。とてもじゃないけれど、使い切れるかどうか)
両親の暮らしが貧しくなる事はないだろうが、そろそろ仕送りを止めてほしい、と電話をしなければならなかった。
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