48枚目 待ち合わせ

 「すまん、ちょっと外に出てくる」


 しばらくして、玄関先から戻ってきた和則がそんなことを言った。


 「何かあったのですか?」

 「いや、何もない……はずなんだがな。師匠に来て欲しいって言われたから顔出してくるよ」


 聞けば、則房が和則を呼べ、としきりに言っているらしい。

 道場の使いをさせられた男たちも、何故和則を呼ぶのか知らされていないという。


 「わかりました。お夕飯はどうされますか?」


 美和一人分の夕飯はなんとかなるが、和則の帰りが遅くなるのならば買い物に行かなければならない。


 「あー……悪いけど作っておいてくれ。なんなら道場帰りに買いに行くけど」


 和則が申し訳なさそうに眉を下げる。本当なら自分が夕飯を作りたい、という表情だ。

 そうしてくれるのはありがたいが、美和には小さな夢があった。


 「あ、じゃあ市場で待ち合わせしませんか?」

 「……良いけど、なんでまた? 俺だけが行けば済む話だろ?」


 唐突な美和の言葉にいぶかしみつつ、和則が問い掛ける。


 「ふふ、夢だったんです。こうして旦那さまとどこかで待ち合わせをするの。……あまり自由に外へ出られなかったので」


 二十をとうに過ぎているのに夢見る少女のようだ、と自分でも思う。

 和則と祝言を挙げるまでは、どこに行くにもそば近くにお付きの人間が控えていた。

 仮に一人で出掛けられたとしても、遠くから見られているような窮屈な生活だった。


 嫁入り前の娘が他の男と逢い引きをするのでは、という父からの過保護な気遣いが、逆に美和の身辺を雁字搦がんじがらめにしたのだ。

 女学校に在学している時も同じだった。同級生とどこかへ出掛けることもなく、そのまま卒業したくらいだ。


 だから美和の「誰かと待ち合わせをする」という夢は、最初で最後の夫と約束したい、と決めていた。

 ほんのりと頬を染め、伏し目がちに言う美和の「お願い」を断れる人間はいないだろう。


 「──い」

 「和さま?」


 顔を上げて和則を見ると、天を仰ぐようにして何事かをぶつぶつ呟いていた。


 「あ、あの……?」


 さすがに様子がおかしいと思い、立ち上がろうとする。けれど、それより早く和則が背を向けた。


 「じゃあ行ってくるからな! 待ち合わせは市場の近くでいいか!」

 「え、はい!」


 和則は半ば叫ぶように、口早にまくし立てた。それにつられるように美和も叫び返す。

 その応えを聞くと、和則は早々に玄関へ続く廊下を歩いていく。

 戸を閉める音が聞こえるまで、美和は畳に座ったまま固まっていた。



 ほんの少し雪見障子を開けて庭の方を見ると、空がほんのりと茜色になりつつあった。

 太陽が沈む前触れか、庭に植えてある桜の樹の葉が濃い影を落としている。


 「そろそろかしら」


 和則が家を出てから一時間近くが経っているが、呼び出しは終わったのだろうか。

 自分から「待ち合わせ」を取り付けておいて、その事ばかりが頭をぎる。

 それに、出掛ける前に呟いた言葉がなんなのか、気になってならなかった。


 (和さまの怒りに触れていなければいいけれど……)


 和則が怒る事は滅多にないが、怒らせるような失言ならば謝らなければ、と思う。


 「うー、あーうっ」


 その時、ほど近くから僅かばかり高い声が聞こえた。

 振り返ると、美和によく似た海のような瞳で桜がこちらを見ていた。

 もにゃもにゃと口を動かし、しきりに何かを掴もうとしている。


 雪見障子を閉め、桜が寝ている敷布のそばに座った。


 「桜、今からお出掛けしますからね」


 言いながら、美和は桜の眼前に自身の手を差し出す。


 「あー」


 目当てのものがあったのか小さな赤子は、きゅ、と程よい力で美和の人差し指を握る。


 「うっう」


 言っていることが分かっているのかいないのか、桜が頷いてくれている気がして、美和の頬も自然とほころんだ。


 「外は寒いから、温かくしてから行きましょうか」


 起きたばかりの桜をそっと抱き上げ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


 「あーう」

 「ふふ、早く父さまの元に行きましょう」


 ほにゃりと笑った桜を腕に抱き、美和は和則が待つであろう市場に向け、いそいそと支度したくをする。

 家の外では風が吹くたびに木の葉が舞い、旋律を奏でていた。

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