4. 俺が思うやさしい日々
20枚目 たった一人の
「──だから一緒に暮らそう、早希」
「それが今更戻ってきて言う奴の言い方? もっと他にあったんじゃないの!?」
はぁ、と麗は密かに溜め息を吐いた。
早希と──麗の父親だった──
(
麗が赤ん坊ころから良き父として、また良き夫として早希と三人で暮らしてきたはずだ。
それがどうしてこんな事になってしまったのか。
麗からしたらとてもちょっとした、というどころではないのだが。
とにかくこれまで以上に面倒くさい事になった。
◆◆◆
遡ること六年と数ヶ月前。
将英と早希が二人、麗が眠っている揺りかごの前に至近距離で陣取っていた。片方は顔面蒼白なのに対し、方やのほほんとした表情で麗をじっと見つめている。
『早希、ちょ、どうすりゃいいんだ!?』
慌てふためく将英に、早希は安心させるように笑ってみせる。
それもこれも「抱っこしてみない?」という早希の一言から始まったのだ。
将英の仕事が多忙を極めていた時期に、麗はこの世に産まれた。
産まれた時間にも立ち会えず、かと言って自分だけ早々に帰るわけにもいかず。
ほぼ毎日、定時を大幅に過ぎた23時に帰路に着く。
早希が産気づいて入院する事になった時も同様だった。
将英の勤める会社は、世間一般から見てブラック企業にあたっていた。
来る日も来る日も上司から押し付けられた案件を片付け、営業をこなし、そうして今日が何日か分からなくなったある日。
任されていた仕事がひと段落し、将英が自宅でくつろいでいた頃の事だ。
早希の退院日が今日だから迎えに来てほしい、との連絡を受けた。
爆速で車を出し、病院まで迎えにいった。
早希の顔を見ると今までの疲れが吹き飛んだかのような錯覚に陥り、将英の思考は一瞬天に昇ったほどだ。
看護師が引くほど丁寧な、それはもう丁寧なお辞儀を添えて病院の出口をくぐる。
『ありがとうね、まさくん』
車に乗って少しした頃、そんなことを言われた。
『……何もしてないよ、俺は』
本当に何もしていない。ただ仕事をして、帰れる時は家に帰って。妻や産まれてくる子が頑張っている事も知らず、ただただ目の前の事に必死に食らいついていただけだ。
『私が言いたいから言ってるの』
『……そうか』
のほほんとしているが、有無を言わさない口調に将英は首肯した。
我が家に着いてすぐ、早希の腕に抱かれる子を今か今かと待ち望んでいた。今日という日が正真正銘、我が子との初対面になるのだ。
(落ち着け、落ち着け俺……。そして落ち着け俺の心臓と手……!)
冒頭の通り意気込んだのはいいものの、いざ抱っこしてみようとなると手が震える。ついでに心臓もドクドクと脈打っている。こんなに緊張したのは早希の家へ挨拶に行った時以来だ。
『まさくんガチガチになり過ぎよ……ほら、ここに手を添えて。ゆっくりね』
苦笑した声音で早希が言ったかと思うと、赤子の小さな頭をそっと抱きかかえる。
その小さな身体はすっぽりと早希の腕の中におさまり、すやすやと幸せそうに眠っている。
泣き出す気配は微塵も感じられなかった。
『ね、こうするの。やってみて』
言うが早いか、麗を将英の腕に移そうとする。
『ま、待てって』
『私がいるから大丈夫──はい』
多少強引ではあるが、将英の差し出した両手にゆっくり頭、身体の順に載せられる。
『あ……』
温かい、と知らず知らずのうちに呟いていた。
小さいけれど確かに体温があって、しっかりと呼吸をしていた。
将英の腕に抱かれた小さな「いのち」は、安心しきった寝顔でむにゃむにゃと口を動かす。
『ね、可愛いでしょ? 私たちの子なのよ』
ポン、と将英の肩口に頭を預ける早希の声音は穏やかで、それも相まってか泣きそうになった。
『……早希』
『うん?』
今の自分がありがとう、と言えるのかは分からない。けれど、精一杯の感謝を言葉に乗せる。
『おれ……俺が守るから、だから──』
傍に居てほしい、か細い声で言った言葉はしっかりと早希に届いたようだ。
『当たり前でしょ』
赤子を抱いた肩が小刻みにフルフルと震えている。
その振動が早希にも伝わったのか、預けていた頭を起こした。
『私は何があっても離れないから』
指通りのいい将英の頭をやわく撫で、そう呟く。
大丈夫、と何度も繰り返しながら言う言葉と同じく、早希の撫でる手は優しかった。
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