21枚目 運命の分かれ目

 産まれてきた子には「麗」と名付けた。

 早希と二人で出来る限りの愛情を与え、大事にいつくしんで育てていく、そう堅く決心して。


 そうして、麗が産まれて数ヶ月経ったある日のこと。

 その日は久しぶりの休みだったが、唐突に上司から「これやっといて」と電話が来たのだ。本当に唐突な事だった。

 部下ならまだしも、立場が上の者なら何も言えない。


 内心で悪態を付きつつ、一つ返事で面倒な「お願い」を引き受けた。

 しかし、自室で一人寂しく仕事をするのも味気ない。


 キッチンから微かに鼻歌が聞こえる。料理を作っているのだろう早希に、一応の意味も添えて声を掛ける。


『あー……早希、仕事するけどリビングでやってもいいか』

『また無茶振りされたの? 大丈夫よ、その代わり麗を見ててくれないかな。手が離せないから』


 ひょこりとリビングを出入りするドアから顔だけを覗かせた将英の行動に、早希は笑みを浮かべる。そうして、リビングのちょうど真ん中で遊ぶ麗に視線をやる。

 我が子は積み木遊びの真っ最中らしく、そろそろと赤い三角形のブロックを頂上に乗せようとしていた。


『あぁ。早く終わらせて遊んでやらないと……親だと思われなくなる』


 将英はどこか遠い目をして、今までのせわしない日常を思う。

 連日の会議、それに伴う資料作り。やっと終わったかと思えば、将英の仕事量が何故か増えている。


 それに文句を言うわけにもいかず、黙々とただ仕事をこなしているうちに時刻が深夜を過ぎることもザラだ。

 おかげで麗と遊ぶ時間はおろか、早希とさえ話す間も無い。


 そんな日常から一時的ながら遮断しゃだんし、ゆっくり休めると思ったらこれだ。

 つくづく上司に恵まれていないと思う。

 ──早希から言わせれば、ブラック企業だからというだけだが、今の将英の思考はそこまで行きついていない。


『まさくんが帰ってきた時嬉しそうでしょ? 大丈夫、麗はちゃんと分かってるから』

『そうか……ならいいんだけど』


 ニコニコと笑う早希に釣られて微笑む。

 愛しい妻に多少ながら励まされた自分が情けなくもあり、みじめだと思えた。



 ◆◆◆



 カタカタと微かな機械音がリビングに響く。

 もうかれこれ二時間ほどになるだろうか。部屋から持ってきた資料と共に、パソコンとにらめっこしていた。


 いつもの仕事量の比ではないとはいえ、目がショボショボとおぼつかない。

 眠気覚ましに、と早希の淹れてくれた珈琲コーヒーはとっくに冷めていた。


『はぁ』


 長時間負担を掛けていたせいで疲弊ひへいしきっていた目頭を軽く揉み込む。

 気休め程度でしかないが、やらないよりはマシだと思えた。


 (……休憩するか)


 パソコンに目を向けつつ、すぐそばにある珈琲を飲もうとした、はずだ。


『……は!?』


 将英は文字通り仰天した。

 掴んだものはぷにぷにとしていて柔らかく──ともすれば赤子のふくふくとした腕のような。


 早希から積み木遊びに飽きた時用に、と渡されていたミニカー──ざっと十個はある──で遊んでいたと思った。

 けれど、麗が居るのだ。将英のすぐ目の前に。

 テーブルに手を付きつつではあるが、麗が


『──き、早希! 麗が……麗が立った!』


 ある程度料理を作り終え、家中の掃除をしていた早希が将英の大声でバタバタとリビングに入ってきた。


『え、待って!? 動画』


 夫と我が子の姿を見つけると、慌てたように自分の携帯を取り出そうとしたところで止める。


『もう撮ってる!』

『ナイスまさくん!』


 グッと親指を立て、興奮しきった声音で早希が言う。

 これほどテーブルの上に携帯を常時していて良かった、と思う事は無いと思った。


 最初の方は手ぶれが酷く見る影も無いが、記念すべき我が子の「初たっち」をこの目で見られたというだけで、将英は天にも昇りそうな心地がした。



 我が子の小さな発見や成長を見守り、自身は毎日仕事に明け暮れ。それでも時間が忙しなく過ぎていき、麗は1歳の誕生日を迎えた。

 子供の成長とは早いものだな、としみじみ思う。


 自分がどんなに疲れていても、早希が笑顔で迎えてくれるだけで満たされる。そこに麗が加わって、将英の日々は充実したものになりつつあった。


 春になれば家族三人で花見をし、夏になればお互いの家に帰省する。

 そうした季節ごとに決まった行事は、あの事件が起こるまで続いた。



 ◆◆◆



 とある朝。

 今日も今日とて出社して遅くまで働いて、早希の作ってくれた夕飯を食べて、風呂に浸かり、眠りに就く……はずだった。


 食後の珈琲を飲んでいる途中で、将英の携帯が鳴った。

 なんだろう、といぶかしみつつ画面を覗く。


『は……? なんだよ、これ』


 無意識のうちに形のいい唇を歪ませる。

 絶句したのも無理はない。

 液晶画面には 『将英、早く会いたい』という、いかにも恋人に送りそうな文面が一件。

 差出人名は、まったくと言っていいほど身に覚えのない──おそらく随分前に一度会ったきりの女性だろう──名前がフルネームで表示されていた。


 将英の女性関係は早希と結婚して以降、完全に絶たれている。会社には女性社員が数十人居るが、男性社員に比べるとほんのひと握りだ。

 数少ない女性達と飲みの席という名の「接待」で会う事はあれど、将英が妻帯者の子持ちである事は知っている。


 営業関係で出会った誰かだろう、と検討がついたが、この女性が誰かなのか思い出せない。

 早希以外の女性に興味が無いから当たり前だが、それはそれとして。


 (……どっちにしろ早希に見られちゃまずいな)


 下手したら麗を連れて家を出ていってしまう未来が見える。一人になってしまう地獄のような状況だけは、なんとしても避けたかった。


『まさくん、そろそろ出ないとじゃないの?』

『うぉあ!?』


 後ろから声が聞こえたかと思えば、早希が将英のすぐ真横から顔を覗かせた。その拍子で携帯を取り落とし、ガタンと音を立てる。


『あ、ごめんびっくりさせて』


 眉を下げて申し訳なさそうに謝る早希に、何故だかこちらまで罪悪感が募る。


 (ビビりな俺も悪いけど今だけはその顔をやめてくれ……!)


 携帯を落とす前に電源を切っていたとはいえ、背中に嫌な汗が伝う。


『はい』


 軽くホコリを払ってから手渡された携帯。ありがとう、と一言言ってからスーツの内ポケットへ入れる。


『あ、い、行ってくるよ』

『うん、行ってらっしゃい』


 動揺しすぎたせいか声が裏返ってしまったが、さほど気に留めていないようだ。

 早希はいつもの可愛らしい笑顔で手を振り、夫を送り出す。

 ひとまず出社したら、先日の営業を共にした同僚へ話を聞こう、と心に決めた。

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