22枚目 魔性の女

 家から会社までは電車を二本乗り継ぐため、片道一時間半を超える事はザラだ。

 学生や社会人との通勤、通学時間をずらしているから、電車内は多少空いている。

 けれど、将英の気分は最高潮までに沈んでいた。


『どうすりゃいいんだ……』


 がくりと項垂うなだれ、文字通り頭を抱える。幸いこの車両にはちらほらとしか人がおらず、誰も気に留める者はいなかった。


 携帯を起動させ、忌々しげにメッセージアプリを開く。その差出人名は、何度見ても身に覚えが無かった。

 将英たち家族の幸せを脅かす女──仮に社内の女性陣だったとして、いち社員の平穏を壊して何になるというのか。


『誰なんだよ、本当』


 もしも早希に知られたらと思うと、胃がキリキリと痛む。

 早いところ、この女が誰なのか突き止めなければならなかった。


 けれど、この時の将英は知らない。ここからが本当の幕開けになるという事を。



 ◆◆◆



 仕事場に着いて自分の席へ座ったはいいものの、始業時間まで三十分程度あった。

 会社に着くまで、朝のことがずっと頭を駆け巡っている。

 そうしてぼんやりしていたから、小さな罰が下ったのか。


『おは……って、ンな辛気臭い顔してどうしたんだよ、色男!』

『ゔっ!』


 ドン、と右肩をめいっぱい叩かれ、将英は突然の痛みに咳き込んだ。

 衝撃を受けた方を見やれば、同僚である片桐かたぎり月冴つかさがわかりやすいほどニヤニヤとした表情を浮かべていた。


『早希ちゃんと喧嘩でもしたか? ん?』


 わずかに高揚した声音が耳に入る。

 これは絶対に楽しむつもりだな、というのがありありと分かった。

 しかしそれだけならまだしも、将英の肩を組んでグイグイ来るものだからたまったものではない。


『……そうだったら良かったんだけどな』


 毎度この同僚はスキンシップが酷い。嫌悪するほどではないが、今日ばかりは抵抗する気も「やめろ」と言う気も起きなかった。


 されるがままにされている将英を不審に思ったか、片桐が先程と打って変わって真剣な顔つきで問い掛ける。


『本当にどうしたんだよ。あのお前がそんなに落ち込むなんてさ』

『いや、言うほどの事じゃないよ』


 苦笑しつつ、さり気に肩を組まれていた手を退ける。

 

『本当かぁ? お前は抱え込む癖があるからな、ここは親友である俺に言ってみな!』

『はは……』


 (別に親友でもないんだが)


 などと呆れた同僚に苦笑しつつ、内心では「助けてほしい」警鐘けいしようを鳴らしていた。


 (言わないよりは良いんだろうが、早希に報告されたら俺の先は無い)


 早希と片桐は、何故か異様に仲が良い。将英が知らない間にメッセージアプリを交換していたり、将英の貴重な休日にはリビングに居座っている事がある。そこで麗と遊んでいるから、強く出ていけとも言えないのだが。


『あ、安心しとけよ? 早希ちゃんには言わないから』


 将英の心配を感じ取ったのだろう。片桐が焦ったように弁明する。


『けど、お前はそう言って前も──』

『その時の事は謝っただろ!? な、今回ばかりは言わないって誓うからさ、なんなら賄賂わいろもやるから!』


 パン、と片桐が顔の前で手を合わせる。なんなら土下座でもしそうな勢いだ。

 こちらが心配になるほど慌てる片桐は、とても嘘だとは思えなかった。今回ばかりは本当に言わないのだろう。


『ははっ、そうだな……今日の昼飯奢ってくれたら信じるよ。Aセットな』


 だから顔を上げろ、と催促する。


『よっしゃ! そんくらいお安い御用だ──んで、どうしたんだ』


 先程までの行動が嘘だったかのように、ニッと歯を見せて笑う。

 つくづくこの同僚は調子がいいと思うが、憎めないのも事実だった。本人に言ったら有頂天になりそうだから言わないが。


『実はな……』


 そうして、頼りになる同僚(仮)に今朝けさあった出来事をつまんで話した。




『いや、そりゃお前が悪いだろ。弱い癖に酒飲んで言い寄られた挙句、営業部の子と連絡先交換してんだから』


 頬杖を付き、片桐がのたまう。


『あの時、俺の隣りに居たのが片桐じゃなかったら……』


 片桐が言うことはこうだ。

 どうやら先月あった新歓との親睦も兼ねた席で、同じ営業部の四宮よのみや朝陽あさひと連絡先を交換した。


 普段の朝陽は、清楚が具現化したような女性だ。けれどその時ばかりは将英の隣りに座り、ことある事に世話を焼こうとしていたのだ。


 そんな朝陽を将英はやんわりと交わしつつ、頼んだ烏龍茶ウーロンちゃをちびりちびりと飲んでいた。

 将英は下戸げこ。少し飲んだだけで酔ってしまうほど耐性がない。

 そうならないように気を付けていたのだが、たまたま隣の席に座っていた片桐のハイボールを飲んでしまったらしい。

 どうりでその時の出来事が途中から記憶が抜けているな、と思ったわけだ。


 けれど先月の今日になって、今朝のような文面を送ってきた心情が分からない。

 新歓から何日も経っているのなら、とっくに忘れているはずだ。なのに何故。

 ぐるぐると頭の中を駆け巡る疑問は、片桐の一言で打ち消された。


『そういや、八坂。起きたらホテルに居たって言ってたろ。あれ、朝陽ちゃんが付き添ってくれたんだぞ』

『は……?』


 ひくりと頬がる。

 終電を逃がしてしまったから、誰かが家に電話してくれたのだろう、とも思ったが帰ってみれば早希に怒られた。

 「遅くなる時は電話をして」と口を酸っぱく言われていたのに破ってしまうなんて、と一人反省したのは記憶に新しい。


 確かに将英は起きた時ホテルに居た。しかし朝陽はおらず、部屋には将英一人だけ。備え付けのテーブルに一万円札が置かれていたから、将英が起きる前にホテルを出たのだろう。


『あの子な、酔い潰れたお前が心配だからっつって譲らねぇの。優しい俺が送ってくって言っても』


 優しい、を強調した言い方に腹が立つが、今はそれどころではなかった。

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