39枚目 愛しい人からの願い
『祝言を迎えたら、俺はもうお前を離してやれそうにない』
お互いが落ち着いた頃に、和則はぽそりと呟いた。
『もう俺には……美和しかいないから』
自分を苦しめた家には、二度と足を踏み入れない。見合いをして少し経った日にそう言っていた。
両親の死に目にも会わない、と言っていたようにも思う。
和則の親が本当に息子を邪魔だと思うのならば、とっくに生きていないはずだ。
けれど和則は今、美和を抱き締めて離さないでいる。
確かに命がここにあるのだ。
その事に感謝こそすれ、自分と出会う前の和則が不憫でならなかった。
『こんなにいい嫁を貰うのに、俺だけが弱いままじゃ……駄目だよな、きっと』
美和は和則の腕の中で、じっと耳を傾けている。
とくりとくりと少しずつ早くなっていく鼓動は、果たしてどちらのものなのか。あるいは両方か。
いや、この際どちらでもよかった。
二人一緒に生きて、死が二人を分かつ時まで年を重ねていけるのなら、それで良い。
すべては二人で幸せに生きるため。
たとえ早くに別れが来たとしても、それまでの人生が幸せに満ちたものならば。
『──貴方は貴方のままでいてください』
『俺は俺のまま……?』
あ、と小さく声を上げる。無意識のうちに言葉にしていたとは思わなかったのだ。
なんだかいたたまれなくて、恥ずかしくて。おろおろと瞳を右往左往させ、目に見えて焦る美和に和則は微かに笑った。
『ありがとうな』
『か、和則さま?』
ポンポンと頭を撫でられたかと思うと、壊れ物を扱うかのように頬に手を添えられる。
『あ、あの』
『黙って』
弁解しようとするが、しっとりとした声音でそう言われてしまうと何も言えなかった。
和則は目を伏せ、美和の小さな唇に優しく口付ける。
初めての口付けは涙の味がした。
◆◆◆
「い……あおい……葵!」
ぺちん、と軽く手の甲を叩かれる。
「へ、何!?」
ごく軽い衝撃に、そこで葵の思考が現実に引き戻された。
見れば、麗が心配そうに葵を見つめていた。
ぼんやりとする葵を不審に思ったのか、少し前のめりの体勢になっている。
「あ、ごめん! 痛かったか……?」
おろおろと子供らしく慌て、麗は小さな手で葵の手の甲を撫でさする。
痛くはないが、びっくりしたというのが正しかった。
「い、いえ。大丈夫です」
そう言ったあと、ふわふわとしていた葵の意識がゆっくりと輪郭を持っていく。
この一ヶ月で、麗と沢山のことを話した。年齢にも学年にも差があるからか、毎日会う事は難しい。
けれど事前に約束するでもなく、来たい時に最初に再会した公園へ来て、じっとお互いを待っている。
前世とは違ってそんな関係も悪くない、と感じると同時に寂しくもなってしまう。
もしも同じ年頃で、一緒に帰る事ができるのならばどれほど楽しいだろう。
一緒に授業を受けて、時にはテストの点数で競い合って。休みの日にはデートをして、美味しいものを食べて。
前世では成し遂げられなかった数々の「もしも」の話が、溢れてはすぐに消えていく。
(今も楽しいけれど……)
物足りない、と感じてしまう。
多くのことは望まないが、せめてこの時ばかりは麗と同じ時間を過ごしていたかった。
「なぁ、葵」
されるがまま黙っている葵に疑問を思ったのか、麗が制服の裾を軽く引っ張った。
「は、はい。どうし──」
「それやめないか?」
葵の言葉を
「それ……?」
きょとんと小首を傾げ、麗を見つめる。
(それ、って何……?)
心の中で
何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
いや、麗は前世からずっと優しいままだ。滅多な事では怒る事もないから、多少の事は許してくれるだろう。
けれど、真面目な話をする時のように真剣な表情だ。今この時ばかりは嘘を言っていない、と思った。
前世、この瞳をする時は嘘偽りなくすべてを話してくれるのだ。思ったことすべて。
「言葉使いだよ」
ぱちくりと目を瞬かせる。
何を言われたのか、最初は理解出来なかった。
「え、私はこれが普通で……」
そう、普通なのだ。『和則』に対してだけであれば。
「いや……だから、な? おかしいだろ、傍目からしちゃ小学生相手に敬語で話してるんだから」
やや呆れた、ともすれば何かを嘆くかのような口調だ。
(普通ならおかしいって思うけれど。和さまは和さまだし、今更口調を直す方がおかしいんじゃ……)
そんな考えが表情に出ていたのだろう。麗は深く溜め息を吐いて、葵の両手を麗のそれで掴んだ。
「葵、ちゃんと聞いてくれ」
「え、はい」
「再会したあの日から、お前は変わってないって知ってる。けどな、傍目からしちゃ異質だ。俺たちは年齢も違うし、背格好だって違う──あと数年もしたら葵の背を越すかもしれないけど」
ぱちぱちと二度三度と瞬く。麗が何を言いたいのか分からなかった。
「……葵」
ぎゅう、と小学生にしては強い力で手を握り締められる。どこにこんな力があるのか、というほどに。
「俺たちは年相応であるべきだ」
強い意思のある麗の大きな黒い瞳が、じっと葵の姿だけを映していた。
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