38枚目 葛藤のさなかに

 美和が想像していたよりもずっと、いやそれ以上に和則が抱えているものは重い。

 最初に出会った頃と比べて落ち着いたとはいえ、和則はひねくれた性格をしている。

 良く言えば寡黙で冷静、悪く言えば表情の無い人形といったところだろうか。


 そのすべては親の愛に恵まれていなかったからだ、と今になってやっと分かった。

 哀しくて羨ましいのだ。蝶よ花よと人並み以上に大事に慈しまれた、やがて自分の妻となる女が。


『母も外面が良い人だった。近所の連中からはしとやかで冷静な、いい嫁を貰ったと父を褒めそやした。裏では家族を放ったらかす奴だとも知らずに』


 ゆっくりと言葉を紡ぐ和則の声が、微かに震えている。今にも泣き出してしまいそうな声音に、美和は胸が締め付けられるような心地がした。


『……美和と出会う一年前、ちょっとした事件が起きた。母が酷く癇癪かんしゃくを起こした日があったんだ。まぁ原因は父がほとんどなんだが──その日は違った』


 そこで一度言葉を切り、未だにじっと座している美和の方を振り向く。

 和則はなんとも言えないような表情で、唇にはほんのりと笑みを浮かべていた。


 「和則、さま……?」


 和則は静かに泣いていた。声を出さずに、ただひっそりと涙を流していた。


『俺はなんで産まれてきたんだ、って。お前なんか居なければよかった、って。……おかしいよな、好きで産まれたわけでも、好きであいつらの息子になったわけでもないのに……っ!』


 段々と語気が荒くなり、やがて和則はその場にくずおれた。


『生きてる意味の無い穀潰し、早くいなくなれ、何度も同じことを言われた』

 美和よりも広い肩がガクガクと震え、少しずつ畳に水滴が落ちていく。


 今すぐにでも抱き締めたくて、落ち着かせたくて。「私は貴方が必要だ」と安心させたくて堪らなかった。

 けれど、脚は動かなかった。いや、動けなかった。

 何かに脚を掴まれているような、そんな感覚がしてならなかったのだ。


『かず、さま……和則さま!』


 びくりと和則の肩が小さく震える。


『……』


 顔を俯かせたまま、和則はか細い声で何事かを呟いた。

 何を言っているのかは分からない。けれど産まれてきた事を悲観する、あと数時間で自身の夫となる人を、これ以上見てはいられなかった。


『──和則さま、私を見て』


 自分でも静かな、凛とした声が出たことに驚く。

 美和ができる事は何か、混乱しそうな頭で必死に考えを巡らせる。


(私は和則さまの妻になるのだから。夫一人支えられなくては妻失格だわ)


 和則が落ち着く言葉を掛けられるかは分からない。けれど何も言わないよりは、何もしないよりは、いくらかマシだろうと思えた。

 一度目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしてから口を開く。


『……私が貴方を必要としては、駄目ですか』


 ──産まれて来なければよかった、なんて悲しいことを言わないで欲しい。

 ──生きる意味が無いのならば、どうか私を貴方の生きる意味にして欲しい。


 そんな想いを言葉に乗せる。

 すると、和則はそろりと涙に濡れる顔を上げた。

 深い海にも似た美しい瞳が、今は寄せては返す波のように潤んでいた。

 綺麗だな、と場違いなことを思いつつ、美和は続ける。


『和則さま。私は貴方の過去も、貴方の中にあるわだかまりも、すべてを受け止めたいんです。そして貴方を心から愛したい』


 和則はじっと美和を見つめ、黙って聞いている。時折苦しそうに顔を歪めるが、それでも涙が流れることはない。


『私を妻にしてくださる事は何よりも嬉しいんですけど……それ以上に、貴方には幸せになってもらいたい。もう過ぎてしまった過去は変えられませんが、未来はいくらでも変えられます』


 どうしたら心を動かせるのかゆっくりと言葉を選びつつ、美和も和則の瞳をじっと見つめた。


『和則さま。私と二人一緒に、幸せになりましょう。過去は過去だと思えるくらい、沢山思い出を作って笑っていきましょう』

『美和……』


 和則は美和に向けて手を伸ばす。しかし何を思ったのか、ぐっと拳を握り締めて顔を俯かせた。


『俺は過去がある限り、お前をさっきみたいに怖がらせるかもしれない。……困らせるかもしれない』


 それが何よりも嫌なんだ、と絞り出すように吐き捨てる。

 和則は、これから妻になる人を大事にしようと思ってくれている。それが手に取るように分かるからか、こちらまで泣きそうになってしまう。


(……耐えなさい、耐えるのよ。ここで泣いてしまっては駄目)


 まぶたをきつく閉じ、そして開く。

 今言わずしてどうしろというのだろう。


『大丈夫です……さっきはびっくりしてしまっただけですから』


 だから大丈夫、と頬に笑みを浮かべる。

 美和は和則に向けて、悠然と手を伸ばした。今度は私が貴方を支えていく、という覚悟を乗せて。


『和則さま、知ってます? 私って貴方が思っているよりも強いんですよ。だから──』


 ──大丈夫、私たち二人ならきっと幸せになれる。


 はっきりと声に出した瞬間、美和の頬には一筋の涙が流れた。

 最初のひとしずくが頬から落ちる時、和則の腕に抱き寄せられた。


 そのぬくもりがどうしようもないほど温かくて、狂おしいほど愛しくて。

 そこで緊張の糸が切れたのか、美和は赤子のように声を出して泣いた。

 抱き寄せてくれる優しい腕にすがり付いて。

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