6. 私の好きな人について

37枚目 貴方の過去

 時々緩く風が吹き、葵の癖のある髪を揺らす。

 部活が終わってから麗たちが来るまでの間、一つに結い上げていた髪も今は下ろし、背中に垂らしている。


 桜の樹からすぐ真下にある、二人掛けのベンチに麗と並んで座る。

 しばらく二人とも黙っていたが、やがて麗が意を決したように口を開いた。


 「ごめん、騒がしい人で」


 ほんの少しだけ肩を落とし、麗は隣りに座る葵を見つめて言った。


 「いえ、面白いお父さんで……笑ってしまいそうになりました」


 笑いそうになったのは本当だ。けれど、本気で言っているのかもしれない将英に悪い気がして、笑うに笑えなかったのだ。


 「いっそ大笑いしてくれたら救われたよ、俺は」


 はぁ、と溜め息を吐き、麗は遊具で遊ぶ小さな子供たち──今の自分よりも年下の──を見つめ、小さく呟いた。


 「……あれで本気だからなぁ。俺もあの人がああいう性分だとは思わなかった」

 「あ、あはは」


 思ったことをそのまま言われると肯定も否定もできず、葵は苦笑するしかなかった。


 (やっぱり本気で言ってたのね……)


 将英はもう居なかった。というよりも、麗が「帰ってくれ」と粘りに粘って将英が渋々帰宅した、という方が正しい。

 あの後すぐさま土下座を解いたものの、今度は葵に質問攻めだ。


 いつ出会ったのか細かく聞かれる事は勿論、果てには家族構成まで聞かれた。麗の「葵が困ってるだろ」という一声でやめたが、実際困惑していたのは確かだった。

 けれど、麗は気付いていない。将英の「親心」という、普通よりも少し歪みがありそうな想いに。


 (かずさまはご両親に恵まれていなかったから)


 知らないのかもしれない、と口の中で呟く。

 その言葉は麗には聞こえておらず、未だにグチグチと自身の日常の鬱憤うっぷんこぼしていた。


 前世、和則かずのりの両親は息子を一切かえりみる事のない人間だと聞いていた。

 その事がどれほど痛ましく、可哀想だと思ったことだろう。

 両親の愛に飢えていた和則は、親からの愛情を受けて育ていつくしまれる事も無かったのだから。

 祝言を挙げる事になった時もそうだった。和則自身の言葉で「両親は居ない」と告げられたのだ。



 ◆◆◆



 美和みわは一瞬何を言われたのか、我が耳を疑った。


『俺には親が居ないんだ』


 じっと美和を見つめて言った和則は、少しの哀愁あいしゅうを瞳にたたえていた。


『そんなはず、ありません……』


 そう言うしかなかった。

 祝言を明日に控える前日になって、他愛ない会話の中でぽつりと紡がれた言葉が、こんなにも悲しいものだなんて。


 和則は自分のことを多くは語ってくれないが、見合いの席で見た両親の姿は優しそうな雰囲気だったのだ。

 そのすべてが嘘だと言うのか。

 そのすべてが作り物の見せかけだと言うのか。


『いいや、居ない』


 和則は目を閉じ、弱く首を振る。伏せられた睫毛まつげが頬に影を落とし、泣いているようにも思えた。


『でも……ご両親と楽しげに話していたではないですか』


 見合いの席で、両家の親と共に揃って顔合わせをしたあの時。

 終始なごやかな会話の中で終わったはずだったが、美和と両親が見た光景すべてが嘘だったというのだろうか。


『──俺の親は普通とは違う』

『え……?』


 何を言われたのかすぐには理解する事が出来なくて、美和は首を傾げる。

 いや、信じたくない、と願ってしまった。


 親というものは、子を慈しみ心から愛するものだろう。美和の両親がそうしてくれたように。

 けれど、今まさに和則は自分の親を「普通ではない」と言った。

 それが意味するものがなんなのか、考えるまでもなかった。


『俺の父親は商家の人間……って聞いたよな。美和、お前は父をどう思った? 母を、どんな人間だと思った?』

『どう、とは……?』


 質問を質問で返してしまう。考える暇を与えない和則の言葉の節々から、怒りとも取れる感情が溢れ出していくようだ。


『見合いの時、父と母を見てどう感じた?』


 まっすぐに見つめてくる、黒く美しい瞳に一瞬見惚れてしまった。

 和則は今、美和だけを見ている。黒曜石の瞳に美和だけを映し、その答えを待っていた。


『え、と……お二人とも優しそうな方々だと……』


 途切れ途切れになりつつも、思ったことをそのまま舌に乗せる。嘘は言っていなかった。


 父親の方は、恰幅かっぷくのいい身体が印象に残り、笑うと愛嬌のある目元が可愛らしいと思った。美和の父にはない魅力があったように思う。


 母親の方は、よく笑いよく聞く、まさに良妻賢母を体現したかのような人だった。美和の母親はどちらかと言うと天真爛漫で、明るい人間だから正反対だと思った。


 和則の両親に共通することは、息子が可愛くて堪らない、ということ。

 何より和則を見つめる瞳が、二人とも慈愛に満ちていたということ。

 けれど、和則は美和の答えに満足していないふうで嘆息した。


『あぁ、そうだな──そうだろうな!』


 空気が震えるほどの大声に、びくりと身体がおののく。


は外面だけは良かった。いや、寧ろ何重にも皮を被っていた方が正しいか……あの日見た奴らは、腹黒い思考をした薄汚い人間だ』


 親と呼ぶのもいとわしいというように、吐き捨てる。身体に溜め込んだものすべてを吐露するほどの声音に、美和は漠然とした恐怖に駆られてしまう。


 和則が声を荒らげる事は、今日この日までただの一度たりともなかった。

 しかし目の前に居る男は、美和の知らない誰かのように感じてならず、暑くもないのに背筋に冷たい汗が伝う。


『二人は俺が邪魔だったんだろうな。だから、この縁談が来た時は「あぁ、やっとこの地獄から抜け出せる」って嬉しかったよ』


 和則は、美和に手を伸ばそうとして止めた。

 美和が震えている事に気が付いたのだ。怖がらせないように、だろうか。柔らかく笑みを浮かべ、和則は続ける。


『──冬になると寒空の中、外に締め出される事もあった』


 ぎしりと座っていた板畳から立ち上がり、障子戸の前にたたずむ。

 見合いを経た少し後に、これから夫婦になる二人が生涯を過ごすであろう家。和則の父が、厚意で与えてくれたものだった。

 その小さな庭には、はらはらと雪が降っていた。もう少しで一面が真っ白に積もりそうなほどだ。


『……父は仕事三昧で、俺たち家族をかえりみる事のない人間で。そんな父に、母は耐えられなかったんだろう。少しでも気に入らない事があると、俺に当たるんだ。酷い時は身体にあざが出来るくらい蹴られて、殴られる』


 先程よりも落ち着いたらしい和則が紡ぐ言葉の数々は、美和が予想していたよりもずっと重く、哀しいものだった。

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