36枚目 父の想いと息子の願い

 やがて、小高い丘になっている桜の大樹の傍に着いた。

 少し声を上げると、届くような距離に葵は居た。

 まだ麗が来た事にも気付いておらず、じっと葉桜が揺れるさまを見つめている。

 その横顔が秀麗で、知らずのうちに見惚れてしまった。


 (いや、見とれてる場合じゃないだろう! なんのためにここに来たんだ)


 麗はふるふると首を振り、ゆっくりと息を吸う。


 「葵!」


 麗が葵の名を呼んだと同時に一際強く風が吹き、葉桜がザワザワと揺れ動いた。


 「和さ──麗くん!」


 くるりと満面の笑を浮かべ、葵が振り向く。

 一瞬「和則」と前世の名を呼びそうになったが、すぐさま呼び直す。


 そんな麗は葵に駆け寄り、ぎゅうと抱き着いた。背後で将英が、僅かに目を見開いている事にも気付かず。


 「ははっ、二日ぶりの葵だ……」


 ぐりぐりと葵に擦り寄り、甘える。

 もしも前世の姿なら逮捕ものだろうが、小学生の姿なら為せる特権と言っても過言ではなかった。


 「麗くん、あの人は?」


 わしゃわしゃと麗の頭を撫で、葵が問い掛ける。透き通るような声音は、しっとりと麗の耳に届いていった。


 「あー……、父さん」


 ぴょこりと葵から離れ、将英の方をちらりと振り向く。

 当たり前だが、麗よりも身長があるからその表情は見えない。けれど将英が会釈するのが、何となくわかった。


 「そう。お父さんと一緒に来たの?」

 「ん、友達に会いたいって言うから」


 間違ったことは言っていなかった。けれど、麗の中で葵は「友達」という柔なくくりではないのだ。

 そんな麗の心情を汲み取ったのだろう。葵はポンポンと麗の頭を撫で、将英へ向き直った。


 「烏丸からすま葵です。麗くんとは先月、この場所で会って。こうして時々、一緒に遊んでいるんです」


 微笑みを頬に浮かべ、葵はぺこりとお辞儀をする。礼儀正しくて気が利いた葵に、麗は少しだけ放心してしまった。


 (葵は──美和みわは、今も昔も変わってないんだ)


 転生してから多少の感情の変化はあるのだろうが、ほとんどは前世と同じ妻の姿だった。

 その事に嬉しくもあり、いじらしくもある。


 (おっと、また頬が……)


 無意識のうちに緩みそうになった頬を軽く叩く。我ながら嫁馬鹿だな、と思うが仕方のない事だ。


 「あ、そうなんですか……麗の父です」

 「ちょ、おい!」


 何気なく視線を将英に向けると、がばりと膝を地に付けて頭を伏せようとしているところだった。

 俗に言う土下座だ。


 「いつも息子が世話になってるみたいで……なんとお礼を言えばいいか」


 社会人の手本とも言えるような完璧な姿は、この場にいる誰もを引かせた。

 と言っても、少し丘になっているこの場所には麗たち以外の人影は無いが。


 (何もそこまでしなくてもいいだろ!?)


 ひくりと頬が引きる。

 流石に父親が土下座をする姿は見たくもなかったが、そこは真面目馬鹿と言われる将英だ。何か思うことがあるのだろう、と自分を騙そうとした。けれど。


 (いや、ないな。この人は母さん一筋だし)


 一瞬にしてその考えは霧散した。早希以外に興味がないとはいえ、普通は息子の「友達」にまでこんな事はしないだろう。


 「父さん、何してるの! ほら、ちゃんと立って」


 半ば諦めの心地で、将英の肩を叩く。けれど、頑として首を横に振るばかりで話にならない。

 何が将英をそうさせるのか、麗には分からなかった。いや、分かったとしても知りたくはないが。


 「あ、あの、顔を上げてください!」


 麗の声で現実に引き戻されたであろう葵も、慌てて将英と同じように地面に膝をついた。白くて綺麗な膝が汚れるのも構わずに。


 「……父さんの癖みたいなもんだから。気にしたら負けだよ」


 遠くを見つめ、ぼそりと呟く。癖かどうかは知らないが、きっと身内と仲良くしている人間全員にこういう態度を取るのだろう。


 「え、えぇ……」


 葵も半ば引きながら、将英の後頭部を見つめる。


 (あ、これは終わったな)


 多少頭のおかしい人間でも等しく接する葵を引かせるのは、将英が初めてかもしれない。そもそも葵が麗以外の誰かと話している所を見た事はないが。


 「もういいから! ね、父さん。俺が恥ずかしいからちゃんと立って!」


 ほとんどやけくそになりつつ、将英に向かって叫ぶ。恥ずかしいのは本当だし、今のこの状況を一刻も早く終わらせたかった。


 すると、がばりと将英が顔を上げる。


 「いやこういうのはちゃんとやっておかないとだろ、お前が世話になってるんだから」


 美しい翡翠の瞳はいつになく真剣で、ともすれば早希に謝罪をしたあの日を彷彿ほうふつとさせた。


 「いやプライドは無いのか!?」


 思わず口調が素に戻ってしまった。父親以前に男としてのプライドを捨ててしまえば、将英には真面目馬鹿という部分しか残らなくなってしまう。


 「一切無い!」


 麗の放った声量よりも倍ほど大きく叫び返す。


 「そこはあってくれよ……」


 今のこの状況で一番聞きたくなかった言葉に、麗は膝からくずおれる。

 将英が真顔で言った言葉に呆れつつ、早く帰ってくれ、と心の中で強く願った。

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