40枚目 大きな葛藤、ひと欠片の勇気

 「とは……?」


 こてりと首を傾げ、ぱちくりと目を瞬かせる。頭の中がはてなだらけだ。

 そんな葵に、がくりと麗は膝をついた。


 「いや、知ってたさ。お前はそうやって……」


 麗はしばらくの間ブツブツとひとりごち、やがて立ち上がった。


 「よし、言い方を変えよう。葵には敬語をやめてほしい」

 「それは分かるんですけど──」

 「ほら、それ! やめてった言ったばかりだろ」


 呆れ顔で、びしりと人差し指でさされる。


 「普通にしようとは思ってる、んだけど」


 麗から視線を逸らし、もごもごと口の中で呟く。

 麗にじっと見つめられると、嫌でも意識せざるを得なかった。

 二人でいる時は自然でいたいのが葵の願いであり、素顔でもあるのだから。


 麗以外がいる前では、あくまでも「そこら辺にいる小さな子供が好きな女子高生」として接している。

 だから麗といる時くらいは、口調を変えたくはなかった。それが周囲から見るとおかしな関係だったとしても。


 「けど?」

 「練習が必要かな〜って……?」


 あはは、と乾いた笑いで誤魔化す。ちらりと麗の方を見ると、にっこりと微笑んでいた。


 (あ、これは……)


 詰んだ、と思った時にはもう遅かった。


 「お前が俺に対して何も変わってないのは嬉しいと思うよ? けどな、今の俺たちを見て他人がどう思うかってのが大事なんだ。話し掛けてこなくても、これくらい静かな場所だったら聞いてる場合もある。現に今がそうじゃないか、ん? 違うか?」

 「ひぇ……」


 口早にまくし立てられると、抗議する暇もない。

 それに加えて笑顔で言っているのだから、それも相まって背筋に微かな悪寒が走った。


 「葵、返事」


 麗の瞳から、すっと光が消える。

 これは本気で怒っている時の表情だ。何を言っても「はい」以外聞き入れてもらえない、と前世と合わせて数年過ごしてきた本能が悟った。


 「はい、じゃなくてっ! わかったから怒らないで……!」


 本気で怒ったら怖い、という事を前世から身を持って知っているからか、気付けば麗の言う事を受け入れていた。



 ◆◆◆



 「はぁ〜……」


 パシャン、と小さな飛沫を立てて湯船に浸かる。

 少し冷えていたのか、すぐさま身体の芯にじんわりと温かさが広がった。


 「ああは言ったけど……」


 口元まで浸かり、ブクブクとお湯で気泡を作る。

 このまま頭まで浸かってしまおうか、と思って止めるた。

 時々小さな事で悩んで、結果的に逆上のぼせる事がよくあるのだ。

 長湯をしているからといって、逆上せる前に出なければ百合ゆりに怒られてしまう。


 (母さんは怖いし、かといって和さまに怒られるのも怖いし……)


 ぼんやりと一人だけの思考にひたっていると、段々意識が混濁としてくる。

 勢いで言ってしまったが、すぐさま反故ほごにしてはそれこそ幻滅されるだろう。


 (ううん、和さまに限って無いと思うけれど)


 それでも、と声に出す。風呂の中はよく反響するから少し抑えて、だが。


 「私が嫌だし……あー! どうすりゃいいの!?」


 ぐしゃぐしゃとまとめていた髪を掻き、葵は湯船に顔を突っ込ませた。

 もうどうにでもなれ、と思う。

 けれど、それと同時に逃げては駄目だ、という自分がいる。

 二つの相反する思考がぐるぐると渦巻き、頭の中がどうにかなってしまいそうだった。


 (あ、やば……)


 春から初夏になろうとしている季節。

 風呂に入る前、百合に「ずっと湯船に浸かっていると逆上せるから、すぐ上がりなさい」と言われていた事を今更になって自覚した。


 その忠告を無視した葵が悪いのだが──途切れそうになる意識の中、呼び出しボタンを押した。


 (母さんの説教確定ね)


 馬鹿な娘を口では怒りつつ、優しい百合の顔を思い浮かべる。

 ふらふらとする身体を叱咤させて湯船から上がると、葵はそのまま床に倒れ込んだ。

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