41枚目 兄が思うこと

 「本っ当に……呆れた!」


 はぁ、と頭上で溜め息が聞こえる。

 ぼんやりとする意識の中、葵はその声の主に視線を向けた。

 いや、顔を見なくても分かる。百合が慌てて介抱してくれた事は、なんとなく覚えているのだから。


 そよそよと団扇うちわで風を送られ、少しずつ意識がはっきりとしてくる。

 言葉では怒っていても、こういう事をしてくれるのだから嫌いにはなれなかった。


 「おっしゃる通りです……」

 「私が家に居たから良かったものの……誰もいなかったらどうするの」


 烏丸からすま家には、葵と百合以外の同性はいない。

 百合がいなければ千秋が介抱する事になるのだが。


 (母さんが居てくれて良かったのかも)


 葵は年頃の年齢だ。学校で男子がふざけあっているのを見る事はあれど、自分から異性に話しかける事はあまりかった。

 ほとんどを一華いちかや同学年の女子たちとつるんでいるからか、何故だか同年代の異性には気後れしてしまうのだ。


 (兄さんは兄さんでアレだし)


 葵が寝かせられている場所はリビングの隅のスペース。

 そば近くのソファでは千秋ちあきがバラエティ番組を観ており、時折爆笑していた。


 我が兄ながら呑気だな、と思いつつ仕方ないと思う。

 いつもいつでもマイペース、興味がある事以外には完全なまでに無頓着むとんちゃく

 妹の目からみても、千秋はそういう「残念な」人間だった。


 「そういや葵さ、なんか悩みあるんじゃねーの?」


 ふと千秋がソファから振り向き、フローリングに寝かされている葵を覗き込む。


 (またそんな目を……)


 海のように深い瞳は、真剣なほど鋭い。何もかもを見透かさんとするかのように、葵の言葉を待っていた。


 「何もな──」

 「あ、そうそう。千秋、ちょっと出掛けてくるから葵のことお願いできる?」


 葵の言葉を遮り、百合が言った。


 「別にいいけど。仕事?」

 「そういうわけじゃないんだけど、ほら……無いでしょ?」


 親指でくいっと左側を指す。リビングから左側の部屋はキッチンだ。


 (もう無いのね……)


 はは、と乾いた声を人知れず漏らす。


 「あ、酒か」


 葵が察したように、千秋にもピンと来たらしい。

 百合は大の酒好きなのだ。冷蔵庫を開けてみると、いつもビール缶や発泡酒が二、三缶は必ずストックされている。

 おおかた、すべて飲んでしまったからスーパーに行って買ってくるのだろう。


 「あー、はいはい。じゃあついでにチョコとか甘いやつ買ってきて。葵に」

 「へ!?」


 突然名指しされ、戸惑う。何故自分に、とも思った。

 甘いものは好きだが、そう頻繁に食べるわけではない。

 バレーをやっている手前、少しでも肉付きがよくなってしまっては試合に支障が出てしまう。そういう意味で、あまり食べることはなかった。


 「いや、兄さ……」

 「葵は甘いもの好きだろ?」


 こてりと首を傾げ、ソファから見下ろされる。

 正直、顔が良いからやめて欲しいとも思う。しかし、千秋なりに気遣ってくれているのだろう。


 (嫌いじゃないけど! でも、うぅ……)


 千秋に対して少し素直になろう、と先月決めたばかりだった。

 けれど、葵の本能と理性が邪魔をする。


『素直になった方が楽よ? 久しぶりに食べたいでしょ〜? ほらほら、早いところ「はい」って言っちゃいなさい』

『駄目よ! 葵ちゃんは部活を頑張っているんだから。「要らない」ってそれとなく伝えるのよ』


 悪魔が、天使が、葵の頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 甘い誘惑に一度でも負けてしまえば、後から立て直せない。それを葵は身を持って知っているのだ。


 「──っ、買ってきて!」


 けれど、本能には打ち勝てるはずがなかった。


 「じゃあ行ってくるわね。千秋、葵のこと見張ってて」

 「おう、行ってらっしゃいー」


 にこにこと満面の笑みで千秋が手を振る。

 やがてパタンと玄関の戸が閉まる音が聞こえ、実質的に千秋と葵の二人だけになった。



 「お、葵の好きな俳優出てるぞ」


 少し高い声音で、千秋がテレビ画面を指さす。そこには「今をときめく若手俳優スペシャル」と銘打った特集が組まれていた。

 何度か見たことのある男性俳優がいるが、あまり集中して観る気にはなれない。


 (どうしよう……)


 ちょこんとソファの前に敷かれたラグマットに小さく座り、うつむく。

 このひと月で千秋との関係が改善したか、と言われると微妙なところだ。

 そもそも兄妹仲は悪くない。が、葵が千秋に対して素直になれない事が問題でもあった。


 (兄さんは私を可愛がってくれるけれど、なんというか)


 「怖い、の……か、も」


 あ、と気付いた時には声に出していた。


 「ん? どした?」


 ひょいと座っていたソファから降り、千秋がラグマットに座る。


 「や、なんでもない。独り言」


 ふいと顔を背け、ついでに千秋から距離を取る。

 ただ座るだけならいいが、肩を寄せるようにしてくるのだからこちらとしてはたまったものではなかった。


 「──葵さ、俺に隠してることあるよな? 結構前に聞きそびれてたけど」


 低くゆっくりとした声が耳朶じだを打つ。百合が居た時とは打って変わって真剣な声音は、先月と同じだ。きっとこの声をする千秋は、葵しか知らない。


 (これは……駄目なやつだ)


 千秋はいつでも明るく、誰に対しても愛想がいい。だから本気で怒った事はあまりない、と記憶している。

 一度、千秋の小学校からの友人らに「兄さんが怒る事はあるの?」と聞いた。けれども答えは「無い」一択だった。

 必然的に、葵の目の前にいる千秋は怒っている、と理解できた。


 (この目で見つめられると)


 駄目なやつだ、と思った。

 怖い、と明確な恐怖が頭をもたげる。それは葵の心をむしばんでいくように、ゆっくりと侵食していった。

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