42枚目 あの日の問い掛け
葵を見つめる瞳が、ふっと柔らかく細められた。
まだ少し濡れているからか、いつもよりストレートになっている頭を柔く撫でられる。
(なんなの……)
葵には不思議でならなかった。千秋が背負っていたオーラは、声は、まるで葵を「責め立てようと」しているかのようで。
先程までの声音や表情とは裏腹に、その手つきは優しい。
葵の抱いていた恐怖が、少しずつゆっくりと霧散していくようだった。
「お前を怖がらせる気は無いんだよ。ただ……元気なさそうだったから気になっただけで」
後半はボソボソと小声なため、よくは聞き取れない。けれど、一瞬の間にいつもの優しい千秋に戻ったような気がした。
「ううん、私もごめん。心配させて……この前、兄さんに当たってごめんなさい」
ぺこりとその場で軽く頭を下げる。
「あー、そのことならいいって言ったろ? なぁに根に持ってんだ」
ワシワシと先程よりも少し乱雑に頭をかき混ぜられ、自然と唇を引き結ぶ。
千秋があまり気にしていなくても、葵にとってはひと月以上が経った今も根に持つ事だった。
「兄さん、黙って聞いていて」
一度深呼吸をし、逸る心を静める。姿勢を体育座りから正座に変え、すっと背筋を伸ばした。
「ん……? おう」
千秋は顔にはてなを浮かべつつも、右足を立てて頬杖をつく。
海のように深く青い瞳が、ゆっくりと一度二度と続けて瞬く。
「兄さんは」
背筋に冷たい汗が伝う。湯冷めしたのかとも思ったが、この汗は緊張によるものだと誤魔化した。
そうでも思わなければ、葵にこの先を言うことは出来ない。
「前世の記憶、が……あるの、よね?」
途切れ途切れながらも、しっかりと言葉にする。
たまに感じる視線に気付かないふりをしていたが、もう黙っているのにも限界があった。
「は、前世? なんだそりゃ」
千秋はあっけらかんとした態度を崩さない。
それだけでなく、おかしいことを言うな、とカラカラと笑っている。
「まだのぼせてるんだろ。ほら、風邪引く前にちゃんとドライヤーしてきな」
さらりと頭を撫でる手はそのままに、千秋はにこりとはにかむ。
けれど、葵はほんの一瞬だけ見開かれた瞳を見逃がさなかった。
(なんだろう、この……違和感)
普通ならば前世の記憶があっても正直に「そうだ」と言うはずだ。けれど、千秋は違ったのだ。
先月のあの日から、千秋の行動には違和感があった。
普段は妹に対する優しい兄としての態度だが、ふとした瞬間から獣になるような、僅かな隙がある。
千秋が葵に向ける感情は、兄妹に向けるものだろう。それは葵も分かっている。
ただ、ふと思ってしまうのだ。千秋が葵に向ける感情が『家族のそれ』ではない事を。
『葵は本当にいい子だなぁ』
『お前のことは俺が一番分かってるんだからさ』
先月の記憶が葵の頭の中をフラッシュバックしてくる。
千秋の表情は分からないが、声だけは一言一句しっかりと覚えている。
あの時は聞き流してしまったが、今考えると歯車が少しずつ噛み合わなくなっていくような、そんな感覚がした。
葵は千秋と二人になる事を避けていた。
素直になれないからではない。いや、むしろ怖かったというのが正しいように思う。
千秋が前世の人間で、普通の一般人だったらどんなにかいいだろう。
もしも前世の葵──
もしも前世、夫婦の仲を引き裂こうとした人間だったら。
仮定の話が浮かんではすぐに消えていく。
(もし、あいつだったら……私は許せない。許さない)
葵は何よりも誰よりも、その男を許してはいなかった。
仮の話でしかないが、もしも千秋の前世が
今、ここで聞かなければならなかった。
百合が居ない今なら、言えると思った。
けれど、千秋は何も知らないふうで葵に接する。
そのことが何よりも嫌で、今世のたった二人の兄妹であっても許せるものではなかった。
「……葵?」
黙って俯く葵を不審に思ったのか、千秋が顔を覗き込む。
「おい、どうした?」
ぐいと手首を掴まれ、強制的に顔を上げさせられる。
海のように深く澄んだ瞳と視線がぶつかった。
その眼は困惑しているような、なんともいえない感情をたたえていた。
「っ──」
お互いにしばらく見つめ合い、葵が口を開こうとした時だ。
「はぁ、ただいま。千秋〜、葵〜! ちょっと重いから手伝って〜!」
玄関先から百合のよく通る声が聞こえた。
途端にゴトン、カンッと何かが床にぶつかる音が響く。
どうやらスーパーから帰ってきたらしい。
「あ……えっと」
離して、と視線で訴える。
きつく掴まれてはいないが、早いところ百合の元へ行かないと怒られるのは二人だ。
それを千秋も分かっているのだろう。あっさりと掴んでいた手首を離した。
「──次の金曜、その事話すから」
立ち上がりざまに呟かれた低い言葉は、葵の耳にしっかりと通る。
「よし、お前は早く髪を乾かしな」
ぽんと頭を撫で、千秋は普段通りの『兄』の顔になる。
「母さーん……ってうわ、買い過ぎだろ!?」
「だって安かったのよ。ほら、これくらいなら一ヶ月は買わないで済むでしょ?」
「そりゃあそうだけどさ。……限度があると思うよ、俺は」
わいわいと元の賑やかな烏丸家へと戻っていくのを、葵は座り込んだまま玄関先の会話を聞いていた。
手早く髪を乾かして、百合が買ってきたものを三人でリビングまで運ぶ。
甘いチョコや
そして千秋が飲むであろう炭酸飲料が一ダース。
車で行ってきたとはいえ、頼んだものを大量に抱えて帰ってきたのだから、出費は大丈夫なのかと心配になる。
「あ、そうそう。来月の頭にお父さんが帰ってくるみたいだから、二人とも何かあげない? ほら、六月は父の日があるから少し早めだけど」
そんな言葉を聞くまで、葵の思考は千秋の前世のことでいっぱいだった。
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