73枚目 本音を言う理由

「俺とお前が、同じ……?」


 千秋は口の中で小さく反芻し、尋ね返す。

 前世、ほんの少し話しただけの間柄でしかない人間に、どうして「同じ」だと言えるのだろう。

 しくも今世で再会し、初めて言われる言葉だと思えなかった。


(いや、それは俺が勝手に思ってるだけだ)


 あの日の事を、千秋はずっと忘れていない。

 寧ろ鮮明に、麗──和則と話した一言一句を思い出せるほどだ。


(酷い事をした自覚はあるし、まさか許されるなんて考えられないけど)


 今、葵に前世での罪を償っている最中なのだ。

 本人は「もう大丈夫」としきりに言うが、それでは腹の虫が収まる気配はないのだ。

 自分がされた行いを、きっぱりと許せるのは葵の良さでもある。

 けれど、葵のように優しくなれるほど千秋は人が出来ていなかった。


「ああ。思うところがあるんじゃないか」


 びくりと千秋は反射的に隣りに座る麗を見つめた。

 その横顔はどこにでもいる子供でしかないが、先程よりも更に低く落ち着いた声音はおよそ子供らしくない。


「正直、分からない」


 千秋はぽそりと呟く。それ以外に言葉はなかった。


「根拠は?」


 そんな千秋の心の内を見透かすかのような、ほんのりと鋭利な瞳を麗は向けた。


「そもそも俺たちは以来話していないだろう」


 麗との前世での出来事は、あまりにも素っ気なく終わった。

 しかし、一言二言の会話だけで千秋──薫は恐怖する事になった。


『俺の妻に手を出そうものならただじゃおかない』


 今よりもずっと鋭い瞳で、そう和則は言ったのだ。

 誰に聞いたのか「美和みわに手を出した」と断定し、薫本人に直接言葉を投げ掛けた。


 成人を少し過ぎたほとんど初対面の男から、父以上の恐怖を感じた事は今でも覚えている。

 そんな男と今世でも再会し、あまつさえこうして話しているとは夢にも思わないだろう。

 

「それをどうして──」

「知ってるんだ、って?」

「っ」

 

 周りの喧騒に紛れることなく、麗の言葉はすっと千秋の耳に馴染んでいった。

 子供特有の少し甘さを含んだ高い声が、ふと葵の姿と重なる。


 物静かで楚々そそとしていた前世に比べ、今世ではお転婆で勝気で、時々可愛さのある千秋のたった一人の「妹」。

 千秋が揶揄からかえば、すぐさま小さな反抗をして怒ってくる。

 毎回お約束とも言えるやり取りは愛おしく、泣きそうなほど大切なものだった。


「……図星だな。分かるんだよ、お前と俺は似た者同士だから」

「似た者同士?」

「ああ」


 すっと麗が目を伏せると、長い睫毛が頬に影を落とした。


「──少し独り言を聞いてくれ」


 そこから麗が紡いだ言葉は、前世の自分の家庭環境とは似ても似つかないものでしかなかった。

 いや、寧ろ期待以上に目を掛けられていただけ、いっそこちらの方がマシだとさえ思うほどだ。


 自分を育ててくれた両親から罵詈雑言を浴びせられ、時には憂さ晴らしにと殴られる。

 両親どちらかの機嫌が悪くなると、たとえ寒空であろうと家から閉め出される事も少なくなかった。

 それが麗──和則かずのりの幼い頃からの日常だったというのだから、千秋は耳を疑った。


 過度な期待が重圧になると、身を持って知っている。

 本心を縛られる苦しみを、身を持って知っている。

 しかし、それ以上に辛い日々を過ごした人間が目の前に居るとこの時ばかりは知らずにいた。


 麗は同情などいらないのかもしれない。

 ただ誰かに聞いて欲しいだけなのかもしれない。

 お互いの前世を知る、数少ない人間なのだから。


「美和に出会うまで、俺の生きたほとんどはゴミみたいなもんだった」


 叶うならば復讐ふくしゅうしてやろう、殺してやろう、と黒い考えに手を染めそうになった。

 けれど、それを実行する事はついぞ無かった。

 すべては美和──葵の存在が、どす黒い感情を浄化させたのだと。


 そう淡々とした声音で紡がれていく言葉の裏に、どれほどの苦難があったのかは千秋の想像に難くない。


「俺には美和が居たから。美和と出会って、俺は変わったんだ。もし美和が居なければ、俺はきっとここにいない」


 あの時の自分は増悪にさいなまれ、いずれ身も心もむしばまれていくはずだったと麗は言う。

 それこそ地獄へ堕ち、この世に生まれ落ちていなかっただろう、と。


「……悪い、話が脱線した」


 ふ、と小さく笑う表情は、どこにでも居る子供のそれだ。

 それが心からの笑みではないにしろ、千秋にとって初めて見た表情だった。


(そんな顔もするんだな)


 前世では麗の厳しい剣幕しか見ていなかったのだ。

 すべては自分がしでかした事が悪いと反省しているが、それとこれとはまた別の話になるだろう。


(あの時、もっとちゃんとしていたら……お前とはまた違う形で気が合っていたのかもしれない)


 お互い生きた境遇こそ違えど、きっと物事の考えにそれほどの差異はない。

 もしも出会った瞬間が違っていたら、良き友人として酒を酌み交わし語らっていただろう。


 そんなことを千秋が考えていると、やがて麗はゆっくりと顔を上げた。


「今の名前、まだ言ってなかったよな」


 大きな黒目がちの瞳には、先程のような鋭さはない。

 ともすれば優しく、千秋のよく知る瞳と同じものがそこにはあった。

 柔らかく細められたそれは、今世に生まれ落ちてから千秋が知ったものだった。


 看護師という仕事柄か夜勤の多い母、そして外交官として世界を飛び回る父。

 なんの因果か前世だけでなく今世でも、千秋は両親と過ごした時間が少ない。


 しかし、離れた分以上の愛を百合と貴仁は分け与えてくれた。

 優しい瞳で慈愛に満ちた言葉を、温かい腕で包み込んでくれた。

 時には怒られる事もあったが、どれもが自分を想っての事だと知った。


 その中でも特に葵の存在があったから、千秋は今日まで泣きたいほとま充実した日々を送る事ができた。

 そして、今。

 因縁とも言える前世での人間と対峙し、この時から日常が変わろうとしている。


「麗、だよな」


 つい昨日、葵から聞いた名前を唇に乗せる。

 名前に似つかず、心の内に苛烈な感情を秘めた少年はわずかに目を見開いた。


「……ああ。俺には勿体ない名前だよ」


 どこかくすぐったそうな、照れた表情で麗は笑う。

 それに釣られて千秋も口角を上げると、同時に肩の力が抜けた気がした。


「良いんじゃないか。和──いや、今の麗に似合ってる」

「本気で言ってるのか、まさか」


 いかにも怪訝そうな表情で訊ねられ、千秋は小首を傾げた。


(こいつにとって俺はそんなに信用無いのか)


 いや、当たり前か、と結論付ける。

 元々小さな因縁をお互いズルズルと引き摺っていた身だ。

 千秋は前世で自分の妻をたぶらかした人間なのだから、麗がすぐさま信じないのも納得がいく。


 けれど、千秋が今まで嘘を言った事は一度も無い。

 すべて心からの本音で、嘘偽りないものだった。


「勿論」


 にこりと微笑むと、盛大な溜め息を吐かれる。


「はぁ……なんなんだよ、どいつもこいつも胡散臭い」

「は?」


 肯定しただけで悪態を着かれるとは、さすがの千秋も予想していなかった。


「──仕方ないし信じてやるか」


 本当に仕方ない、というような顔で微笑まれてしまえば、言葉を飲み込むしかない。


「ははっ、そりゃあどうも?」


 釣られたように千秋も微笑む。

 雲ひとつない青空の下、柔らかい風が優しく吹いていた。


「いい天気だな」


 麗がどこまでも続く空を見つめながら言う。


「……そうだな」


 そんな麗に聞こえないよう、千秋は小さくうそぶいた。


「お前たちを嘘で傷付けたんだから、今世でこれくらいの事はさせてくれ」


 今までもこれからも、千秋は心からの声を紡いでいくだろう。

 それが千秋の、かおるの出来るつぐないだ。

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