74枚目 兄としての心配
「……ん? 何か言ったか」
「いいや、なんでもない」
まさか聞こえていたのか、という疑問は瞬く間に霧散した。
「そうか。話は変わるけど」
そっと麗が顔を
「うん?」
心なしかほんのりと耳が赤く、頬に朱がかっている。
「おい、大丈夫か。熱があるんじゃ……」
葵からあまり身体が強くないと聞いていた。
少し歩いただけで疲れが出たというのならば、この際葵に千秋がここにいるとバレる事は後回しだ。
早急に葵を探し出し、麗の家へ送り届けなければならない。
「違う」
しかし、麗はふるふると首を振る。
「何が違うんだ、こんなに顔が赤く──」
「お、俺と……友達になってくれ」
千秋に被せるように発された言葉を理解するまで、数度瞳を瞬かせた。
「……は?」
少年のなりをした、けれど思考はれっきとした成人男性が、「友達になってくれ」というたった一言を照れながら言うだろうか。
千秋の知る限り、この世のどこにもいないだろう。
そう思うと、段々口角が上がってしまうのを堪えきれなかった。
「なんだよ、何とか言えよ!」
千秋から返答をもらえないのに業を煮やしたのか、みるみるうちに頬だけでなく麗の身体全体が薄桃色に染まっていく。
「いや、可愛いなと思っ……」
あぁ、と千秋は嘆息した。
同時にぽんと麗の肩を叩き、背後を向くように促す。
「なんなんだよ、お前は……」
呆れた言葉を零しながら麗が振り向くと同時に、千秋はいつも通りの笑みを顔に貼り付けた。
飄々とした、
「あ、葵ちゃん」
焦った口調で麗が葵の名を呼ぶ。
(葵ちゃん、か)
今世ではそう呼ぶんだな、と千秋は一つ頭に書き加える。
先程まで「美和」と愛しそうに呼んでいた表情とは違って、年相応の顔で。
「おー、葵。お前も来てたのか」
数メートル先から歩いてくる葵が気付くように、千秋は軽く片手を上げて合図をした。
◆◆◆
「ご馳走さん!」
「ご馳走さまでした」
二人揃って手を合わせ、挨拶をする。
「はぁ……美味かった」
「ふふ、お粗末さまでした」
にこにこと上機嫌な様子で、葵は食べ終えた食器を流しへと持っていく。
終始美味いと言いながら食べ終えたためか、作った方としては気持ちがいいのだろう。
(顔に出やすいよな、本当)
本人は気付いていないようだが、葵は人よりも喜怒哀楽が豊かな方だった。
嫌な事があれば悪態をつき、嬉しい事があれば全力で喜ぶ。
そんな「人」としての在り方がよく分かる人間だ。
頬杖を着きながら千秋が無意識で見つめていると、葵は視線に気付いたのかくすぐったそうに苦笑した。
「なぁに」
「いや。美味かったなって」
「ふふ、何回も聞いたわよ」
鼻歌交じりの声に、こちらの気分まで上がっていく心地にされた。
「また作ってくれ」
だからこんなお願いですら口から零れ落ちてしまう。
千秋はいつでも本音で話しているが、こうもスラスラと心の声が出てしまうのは葵だけだった。
「はいはい」
「よし! じゃあ次は葵の食べたいものでも作るか、何がいい?」
「んー……そうねぇ」
他愛ない話をしながら思い返すのは、昼間に麗と話した事だ。
あの時、千秋は麗に心から前世での償いをすると誓った。
二人のこれからを出来る限り見守る事。
麗や葵から乞われれば、千秋の出来うる限り協力する事。
(しっかしあれはまぁ……可愛らしい願いだことで)
思い出すと自然と口角が上がる。
『お、俺と……友達になってくれ』
俯いて頬を染め、小さな声で言う姿は正しく子供のそれだった。
大人びた表情が瞬時に年頃の顔になるところは、何度見ても千秋の心を高ぶらせる。
(ま、そこら辺を呑むかどうかは明日だな)
麗からのたっての願いを聞くかどうかは後にするにして、今は千秋からの「お願い」を葵に言う時だ。
「──と、言い忘れるところだった。明日さ、郁の家に行くけど一緒に来るか?」
「え、郁くんの!? なんでまた……」
葵は食器を洗っていた手を止め、顔を上げた。
その答えに千秋は微笑みだけを返す。
(俺が聞きたいよ)
そう、本当に千秋の方が聞きたい。
千秋と郁、葵と麗で公園の外をぐるりと歩いている途中、ふと郁から言われた言葉だった。
『明日ね、お家に来て欲しいの』
小学生特有の、ほんの少し甘く高い声で乞われたのだ。
「昼間、和サマといちゃついてた間にちょっとなぁ」
「別にいちゃついなんか……! じゃなくて、話を変えようとしない!」
ほんのりと頬を染め、葵が抗議してくる。
きっと、今の自分は人の悪い笑みをしていることだろう。
けれど、後ろから歩いてくる気配のない二人を振り返ってみると、良い雰囲気になっていた事は確かだ。
傍目から見れば一見体調の悪い弟を窘める姉、といったふうだったが、二人の間柄を知っている者から見たら違う。
(自覚がないのか……)
千秋の予想でしかないが、麗は分かって甘い雰囲気にしようとしていたように思う。
それを葵が拒んだか、本当に自覚がないのか。
どちらにしろ麗に同情の念を抱いた。
「ごめんごめん、それでな?」
このまま葵の機嫌を損ねては本末転倒なため、千秋は殊更ゆっくりと言葉を紡いだ。
「葵ちゃんも是非、って郁から伝言だ。なんなら麗も来るぞ」
「か、和さまも!?」
「そこ気になるのな」
なんとも呆れた心地で千秋は苦笑した。
自分の心に正直なのは良いことだが、すべて声に出してしまっては馬鹿正直もいいところだ。
(そのうち詐欺に合わないか、こいつ)
前世ではあまりにも落ち着いていたからか、その反動で正直さが全面に出てしまったのだろうか。
つくづく可愛い妹の将来が心配になるのは、千秋がこの世に馴染みきっているからだと分かっていた。
(俺が守ってやるからな……)
そんなあるともつかない事に思考を飛ばしていると、丁度食器を洗い終わったのか、パタパタと葵が小走りで駆けてきた。
そうして未だ頬杖を着いている千秋の前に立つ。
「行く、行くわ! ううん、行かせてください!」
今日一番の大きな声に、きぃんと千秋の鼓膜が震えた。
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