3枚目 兄の愛と妹の感情

 部屋の壁掛け時計を見ると、五時三十分を少し過ぎていた。


 (生意気な態度取っちゃった……。兄さん怒ってるかな)


 千秋に何も言われずとも、準備をするつもりだった。ただ、千秋の鮮やかな手つきで作られるサンドイッチを、じっくりと見ていたかったのだ。

 少し落ち込みつつ、もそもそとクローゼットから制服を取り出した。


 葵の通う高校の制服は、紺が基調になっている。

 スカートは赤いチェック柄。えりに校章バッジを付け、真っ白いブラウスに紺色のボーダー柄のネクタイを締めるタイプだ。

 中学のオープンスクールで最初に見たとき、この高校へ行くと決めたと言っても過言ではない。


 制服に着替えた後は階下へ降りて、サッと洗顔と歯磨きを済ませる。

 癖のある黒髪を、ヘアブラシでかす。

 しかし、元来の体質なのか、はたまた遺伝なのか。どんなに梳かしても押さえつけても、すぐにぴょこんと跳ねてくるのだ。


 「はぁ、本当に兄さんが羨ましい。私もサラサラになりたかったな」


 グチグチとぼやきつつ、癖がついている根元からドライヤーの温風と冷風を交互にあてる。


 「……よし、終わり!」


 当たり前だが、千秋のようにサラサラしている、とまではいかない。けれど、少しの癖が残るだけでなんとか人に見せられるようになった。


 キッチンへ戻ると、珈琲コーヒーの香りが微かに鼻腔びこうをくすぐる。

 どうやら千秋がれてくれているらしい。

 葵はスンスンと無意識のうちに匂いを嗅ぐ。

 我ながら意地汚いと思うが、お腹が空くような匂いをさせているのだから仕方ない。


 「いい匂い……」

 「お、来たか。昼も作っておいたから持っていきな」


 葵がキッチンへ入ってきたのを見計らったかのように、千秋がピンク色のハンカチに包まれた弁当箱を掲げる。

 花柄がモチーフになっているそれは、葵のお気に入りだった、


 「って卵焼き入ってる?」

 「おう、勿論。甘めにしておいたから美味いぞ〜」


 思わず聞いてしまったが、そう聞かれると分かっていたらしい。くすりと頬に笑みを浮かべ、千秋は言った。

 背もたれ椅子に深く腰掛け、さも自慢気な表情だ。


 「ふふ、食べるのが楽しみ」


 千秋の笑顔が移ったかのように、葵もにこにこと微笑む。

 葵は甘い卵焼きが好きだ。

 千秋の作る少し甘めのサンドイッチも好きだが、中でも砂糖を入れた甘い卵焼きが一番の好物だった。


 キッチンからリビングへ移動し、テーブルの定位置へ座る。


 「さ、食うか」

 「いただきます」


 千秋にうながされ、葵は手を合わせる。

 専業主婦から転職した百合が看護師の職に就いてから、今年で五年になろうとしていた。

 千秋と二人で朝食を摂る日がずっと続いているからか、葵はこの日常に慣れていた。

 百合も加えて、三人で朝食を食べられないのは少し寂しいとも思うが、仕方ないと割り切っていた。


 葵はサンドイッチに手を伸ばした。手に持つと、まだ出来たてかと思うほど温かい。

 一口食べて、ゆっくりと咀嚼そしゃくする。


 「……美味しい!」


 温かい卵焼きは、口に入れると少しの塩気と甘みが鼻から抜けていく。

 卵焼きを挟んだからか、サンドイッチ用食パンはいつもよりしっとりとしていた。

 バターとマヨネーズを塗っているからか、卵焼きのアクセントになって食べやすい。


 (いくらでも食べられそう)


 パクパクと夢中で頬張っていると、向かいに座る千秋の手が伸びてきた。


 「そりゃあ良かった。足りなかったら作るから言って」


 言いながら、千秋はそっと葵の頬に触れる。


 「へ」


 顔を上げさせられたかと思うと、親指で唇の端を拭われた。


 「な──!?」


 ハクハクと口を上下させ、声にならない声をあげる。


 「本当、葵はお転婆だな」


 唇の端にソースが付いていた、と理解するまでに数秒掛かった。

 ペロリとソースが付いた自分の親指を舐め、千秋がゆっくりと微笑む。


 (何やってるのこのバカ兄ーーー!?)


 きっと今の葵は、顔が爆発しそうなほど赤くなっているに違いない。

 そして、恥ずかしげもなく世の女子たちが失神するほどの事をやってのけた張本人は、テーブルに頬杖をついて笑っている。


 どんなに同級生の男子を探しても、千秋の笑顔には引けを取るだろう。それほど太陽のように温かい、爽やかな笑みだった。

 けれど、先ほどの行動は度が過ぎるというのもある。


 「兄さんは本当に──」


 顔をうつむかせ、小声で呟く。

 普通ならやらないような事を、実の妹にしてしまう兄がいるのか、という意味も込めて。


 「ん? 俺がなんだって?」


 ボソリと言ったつもりが、聞こえていたようだ。


 「え……っと」


 食事の手を止め、千秋がじっと見つめてくる。

 海のように澄んだ瞳は、いつになく真剣だった。

 葵はキョロキョロと目線を泳がせ、どう言ったものかと思案する。


 (多分これは言っちゃ駄目、なのかもしれない)


 フイと葵はそっぽを向いた。

 言っても言わなくても、変な勘が当たる兄はどこかで感づいてくるだろう。

 それなら、気付くまで言わない方がいいのかもしれなかった。


 「……何もないわよ。もう行くから」


 ガタリと椅子から立ち上がる。

 これ以上家に居ては駄目な気がした。


 「もう? まだ早いんじゃないのか」


 千秋が携帯を起動させ、時刻を見る。六時九分、とシンプルな画面に表示されていた。

 床に置いていた通学カバンを半ば引っ掴むようにして、席を立つ。千秋お手製の弁当も忘れずに入れて。


 「部活の朝練があるから!」


 叫ぶように言うと、葵はリビングから玄関までを小走りで走っていく。


 「あ、あー……。行ってらっしゃい」


 葵が出ていって数秒経ってから放った千秋の声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほど小さなものだった。

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