86枚目 二人のマブ
大学から徒歩数分もしない場所には、早朝夜までからやっているカフェがある。
SNSでも人気の店で学部の人間は勿論、SNSから知った若者を中心にカップルらがこぞって集まる、そんな店だった。
千秋はカフェに近付くにつれ、段々と重くなっていく足取りをなんとか気合いで奮起させる。
(なんでノコノコ来るかな、俺も!)
などと己の性格を理解していないほど千秋は馬鹿ではない。
相手から待っていると言われれば、どうしても『待たせては悪い』という感情が働くのだ。
用件はメッセージアプリで言えば事足りるとも思うが、それがどれほど些細な事であっても、相手から先手を打たれてしまえば千秋は弱かった。
「まぁ……あの馬鹿とそこらの女に比べたらマシか」
商業学部は異性が多いとは言えないまでも、それなりにジャンルの違う女性が多いのは事実だ。
但し千秋は大学内で人気があるためか、高確率で言い寄ってくる者が多いのだが。
ぶつぶつと悪態をつきながらも、千秋はカフェのドアを開ける。
カラン、と涼やかな音を立てたドアベルが鳴り響いた。
「あっ、千秋!」
千秋がその相手を探すよりも早くに気付いたようで、こっちこっち、と手を振って場所を示す。
「待ってたよ〜」
四人掛けのテーブルには二人が並んで座っていた。
青みのかった腰まである髪をツインテールにし、ピンクスラッシュスリーブに黒いスカートを合わせた、
「……来たか」
その隣りには、やや明るい銀髪に上下を黒で統一した男がゆったりと椅子に座っていた。
「
言いながら千秋は殿下屋の真正面の椅子に座った。
「言っておくけど連絡来たのは昨日の夜だから。お前とは違う」
ツン、と澄ました口調で殿下屋がそっぽを向く。
(こいつもいつも通りだな)
はは、と千秋は小さく苦笑する。
どうやら千秋の事が苦手なようで、けれど話を振ればしっかりと応えてくれるのだから、きっと自分の思い込みが激しいだけなのだろう。
「またまたぁ〜。
「名前で呼ぶな! あと俺は待ってない!」
くすくすと笑いながら茶化す女と、それを否定する男。傍から見れば痴話喧嘩をしているようにも感じ取れ、千秋は何故かいたたまれなくなった。
「……けど
けれどそれをおくびにも出さず、千秋は口角を上げる。
「あーーーーー! 可愛くない呼び方しないで!」
みるみるうちに頬を紅潮させて怒る少女──もとい、名を太陽という。
顔立ちは完全に女性のそれだが、元から可愛らしい顔というのも相俟って、大学に進学するとこの服装にしたと入学してすぐに聞いた。
「ボクだってもっともっと、千秋や飛鳥みたいに女の子っぽい名前が良かったのに……」
うう、と太陽はテーブルに突っ伏して泣き真似をする。
いつもいつでもこの
ただ、その容姿もあってか何も知らない男に惚れられ、女には目の敵にされる事も時としてあった。
学内での友達は男女問わず多いというのだから、人間とは分からないものだ。
それはいい事だし個性だが、太陽の距離の詰め方は程度というものがあるのではないか、と常から思う。
「親から付けてもらった名前に文句言うな」
千秋は自分の名前が嫌だと思った事は一つもないが、つい呆れた口調で太陽に諭してしまう。
「えー、やだ。ひぃちゃんがいい」
「俺は今関係ないだろ」
飛鳥もそう思うよね、と太陽が隣りに座る殿下屋の腕に自身のそれを絡ませる。
隣りに座っていなければされたのは自分だと思うと、今だけは殿下屋に感謝するべきだろう。
二人は昔からの幼馴染みらしく、殿下屋は太陽の行動に慣れきってしまっているようだった。
ただ、軽くいなせるようになれたら、それはそれとしてどうなのかとも思う。
(俺の中の何かが壊れる気がする……)
仮にも見た目が少女のそれで、ともすれば本当の女性と接する時に感覚が麻痺しては元も子もない。
幸い、太陽からは身体に軽く触れるくらいしかされてないからまだ自分は大丈夫なのだろう。
(何がとは言わんがな、何がとは)
やや冷めた瞳で千秋が真正面の二人のじゃれ合いを見つめていると、ふと太陽が口を開いた。
「そういえばさ、今度のサークルの新歓どうする?」
「俺はパス。飲むの好きじゃないし、皆うるさい」
太陽の隣りに座る殿下屋が即座に唇を開く。
あまり馴れ合うのが好きではないらしいが、サークルには一応『太陽と同じ』音楽サークルに入っている。
そこでどんな活動をしているのか詳しくは知らないが、殿下屋の態度からしてほとんどが明るい者の集まりらしい。
「俺は入ってないから関係な──」
「千秋もおいでよ! きっと楽しいよ」
千秋の言葉に被せるように、太陽がその名前通りきらきらとした笑顔で言う。
「いや、俺はあんま」
「あ、お酒飲むの慣れてない? じゃあ飲めなくてもいいからさ、来てください!」
再度被せるように言うと顔の前で手を合わせ、今までの態度が嘘のように太陽が下手に出る。
これも策のうちなのかもしれないという感情と、どうしても飲まないと駄目か、という感情がせめぎ合う。
確かに酒は飲みたいが、太陽のノリについていけるかどうかは微妙だ。
しかし、千秋にはそれ以上に面倒な心配事があった。
「……介抱しろって願いは聞かんからな」
じとりと太陽の顔を真っ直ぐに睨め付けた。
そんな千秋とは対照的に、テーブルに乗り上げそうな勢いでがしりと肩を摑まれる。
「な、なんだよ」
思った以上の強い力に、千秋は図らずも少したじろいだ。
まさか見た目に似合わず怪力なのか、と思わず口から出そうになる。
「ありがとう千秋〜! 大好きぃ〜!」
ここがカフェということも忘れて泣き出すさまは、傍からはどう思われているのだろう。
(あ、やっぱ断るんだった)
貼り付いた笑みを浮かべたまま、千秋は己の言葉を撤回したくなった。
いや、仮に出来たとしてももう遅い。
こちらの言葉を今すぐに忘れる、という言葉は太陽の辞書には無いのだから。
感涙する太陽の隣りで殿下屋はいつの間に頼んだのか、サンドイッチとカフェオレをもそもそと食べていた。
こうなれば太陽がザルであろうが下戸であろうが、こちらが呆れるほど飲んで介抱を免れよう、と千秋は密かに画策する。
来る飲み会まで、どれほど猶予があるのかは分からないが。
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