87枚目 日常の中に潜むもの

「……疲れた」


 一日の講義が終わり、千秋はそのまま机に頭を預ける。

 ノートやペンケースは片付けており後は部屋を出るだけだが、今は立ち上がることすら億劫だった。


 それもこれも、朝っぱらの出来事で体力を使ってしまったからだ。


(新歓、どうすっかな……)


 一度行くと言ってしまった手前、もはや断るという選択肢は千秋の中で除外されている。

 元からお人好しという自覚はあったが、それもここまでいくと自分でも嫌になってしまうのだが。


「ちーあきっ」

「うっ!」


 どん、と背後から衝撃があった。

 そう強くはないものの、机に伏せたままでは中々の重圧となって千秋の背中にのしかかる。


「太陽、お前、本当に……」


 呆れてものも言えない、とはまさにこの事を言うようで、千秋はのそりと起き上がると太陽を睨み付ける。


「わ、そんな怖い顔しないで! せっかくイケメンなのに台無しだよ?」

「誰のせいだと思ってる!?」


 間髪入れずに突っ込む。

 人が思い悩んでいるという状況に水を差されては、流石の千秋でもいつも通り聞き流せなかった。


「……太陽、あんまり烏丸を困らせるな」


 一部始終を見ていたらしい殿下谷が間に入り、仲裁してくれる。


「困らせてないし! もう、飛鳥ってばお堅い〜」


 太陽は可愛らしく頬を膨らませ、ぽんぽんと殿下谷の胸を叩く。

 あまり痛くはないらしいが、殿下谷のさも嫌そうな表情で千秋は悟った。


(ずっと苦労してたんだろうな……)


 幼馴染みとはいえど、時には嫌な事もあるだろう。

 ただ、殿下谷はあまり表情が変わらないため本当のところは分からないのだが。


「あ、それでね、千秋。新歓の事だけど──」

「すまん、やっぱパス」


 太陽の言葉を遮り、千秋は片手を上げて言う。

 やはり自分が行っていい所ではない、と改めて結論が付いたのだ。


(そもそも知らない奴と話すより、お前らと居た方がまだマシだし)


 そう口を滑ってしまえば、すぐさま太陽が調子に乗る未来が見えるため死んでも言ってやらないが。

 千秋は曖昧に笑いながら小さく続ける。


「よく考えたらバイト始めてさ、ほら……大学の近くにカフェあるだろ? そこで……」

「え、どこ!? 遊びに行……うぷっ」

「太陽、うるさい」


 今度は太陽が千秋の言葉を遮る番だったが、すかさず殿下谷が手で太陽の口を塞いだ。


「むー! むー!!」


 唐突の事にばたばたと暴れる太陽を空いた方の手でいなしながら、殿下谷がこちらに視線を向けた。


「悪いな、無理矢理誘って。こいつには止めるように言っておくから。──ほら、行くぞ」

「……ぷはっ! ちょっと飛鳥! 勝手に決めないでよ!」


 そう言うが早いか、太陽を半ば強引に引き摺って殿下谷は教室を後にした。


「なんだった、んだ……?」


 千秋は一人取り残されたような心地で、二人の姿が見えなくなるまで出入り口を見つめる。


 太陽が無茶振りをするのはいつもの事だが、その傍には殿下谷も居た。

 しかし、普段とは違って助け舟は出してくれなかったため、二重で困惑していた。


(でも助けてくれた、んだよな)

 

 殿下谷のきらきらと輝く金色の瞳は、やや同情の色が見え隠れしていた。

 それは常に突拍子もない行動をする幼馴染みに呆れたのか、千秋が困っているのを見ていられなかったのか、どちらかなのか千秋には知るすべがない。


「……礼言おうにも連絡先知らないんだった」


 はは、と小さくひとりごちながら千秋は立ち上がる。

 二人とは大学で会っているが、持ち前の性格ですぐに「連絡先交換しよう!」と言ってきた太陽とは違い、殿下谷に対しては何も知らない。


 男女問わず沢山の人間に囲まれている太陽と、一人で居る時が多い殿下谷とでは真逆だ。


(まぁあいつの傍が落ち着く……のか?)


 静かな自分とは対照的に、少しうるさい人間が傍に居る方が上手く回るのだろうか。

 千秋自身は静かな方だと自覚しているが、それでも四六時中太陽のような人間が居ては苛立ってしまう可能性があった。


「結局のところ性格だよなぁ」


 ぽつりと呟くように言った言葉は、学生らのザワザワと騒がしい声に紛れて消えていった。


 


 ◆◆◆



 

「ありがとうございました、いい一日を!」


 にこりと外行きの笑みを浮かべ、千秋はカスタマイズドリンクを手渡した。


「は、はい。あの……また、来ます」

「はい、お待ちしていますね」


 頬を赤く染めて受け取った女性は、顔を俯かせながら小さな声で言った。

 

 大学を出てすぐのカフェで、アルバイトを始めたというのは本当だ。

 これも経験だから、と学業優先を条件に百合がアルバイトの許可を出したのだった。


 大学が終わってから行くため近くの方がいいと思ったが、少しバイト先を間違えた節は否めない。


(今日も視線が痛い……本当に痛かった)


 仕事をしていると、常に女性の熱っぽい視線が身体に突き刺さっている心地がする。

 同じ学部の女子の姿もチラホラ見え、千秋は知っている顔に話し掛けられても知らぬ存ぜぬを通すしかなかった。

 

 加えて頬の筋肉を使い過ぎ、それも相俟って二重にも三重にもストレスが溜まっている。


 自分の顔が整っているという自覚はあまりない。

 そのためよく葵に叱られてしまうのだが、怒っている時も可愛い妹の姿を思い浮かべていると、千秋の口元が知らず緩む。


(昔は思わなかったけど、葵って俺の顔好きだよな)


 前世でもモテていたという自覚はなく、あってもその時ばかりは目の前の事に精一杯だった。

 正直なところ女性と接した記憶はほとんどないが、葵──美和に出会ってから世界は変わった。


 少しお転婆で、しかしどこか抜けているところもある可愛い初恋の相手──だったが、今となっては守るべき存在になっている。


 公園で麗と少しばかり話した時、寄ってくる男から守るという事は勿論「葵が幸せになるのを見届ける」と心に刻んだのだ。


(早く帰って夕飯を作って……いや、その前にスーパーに行くか)


 そろそろ交代の時間が迫っている。

 千秋はマニュアル通りに手を動かしながら、三人に一人は来る女性のアプローチを笑顔で躱した。


 頭の中では葵と食べる今日の夕食と、いずれ殿下谷の静止を掻い潜ってくるであろう太陽の来訪に気を遣うという、我ながら器用な事をしながら。

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ひとひらの花弁 櫻葉月咲 @takaryou

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