71枚目 その先にある未来

「兄さーん? ご飯出来たから降りて来てー」


 葵の声が、二階にいる千秋の部屋まで響き渡る。

 しっとりと落ち着いた声は同年代の女子に比べて高くなく、むしろ千秋の耳に馴染んで心地いいほどだ。


(もうそんな時間か)


 机に置いてある時計を見ると、十八時に差し迫ろうとしていた。

 来週あるテストの予習の為にと、広げていたノートと参考書を閉じる。


(しっかし、俺がまたこうして勉強してるとは)


 あれほど嫌いで逃げ出したかったものが、今世では千秋にとって大事なものになっていた。

 学ぶ事は勿論だが、それを吸収して人に教える事に充足感を見出しているのだ。


「……人間って変わるもんだよな」


 誰にともなく自嘲気味に呟く。

 前世での幼少期、鷹司たかつかさかおるとしての自分には未来が無いと思っていた。


 親から強要された勉学が嫌で、自由を欲してやまなかった事。

 親からの期待に答える為にと、曲がりなりにも努力した事。

 弟たちを可愛がる両親が憎く、何故自分だけこんな思いをしなければ、と叫びたくなった事は数え切れない。


 しかし、我慢を重ねて二十五になった年。

 衝動で家を飛び出し、長年の夢だった簪屋──『緋ノ龍』を営むようになった。


 最初こそ軌道に乗らない事にやきもきしたが、少しずつ繁盛していくさまを見るのは感慨深かった。

 そうして一年が経つ頃には、商人を中心とした顧客が付いた事で自分は商売をしていける、そんな確信があった。


「昔より覚える事は多くなったけど、これで俺は……」


 千秋は閉じたノートにそっと触れ、言葉を切る。

 表紙に大きく『経済学部』と書かれたそれは、大学で学んでいる分野だ。

 昔こそ独学でなんとでもなったが、改めて一から学びたいと思ったのはつい数年前。


 高校の進路相談で、進学か就学か選択を迫られた時、真っ先に進学を選んだ。

 その時の葵は、前世の記憶を思い出していなかったように思う。

 しかし、お互いの確執が完全に無くなった今。

 無事に大学を卒業した後、千秋の『夢』を語ってもいいかもしれない。


(あいつならきっと、いや、確実に応援してくれる)


 今世での両親も、千秋を応援してくれている事はとうに分かっている。

 ただ、昼夜を問わず忙しい親以上に沢山の時間を過ごした妹は、笑わずにいてくれると確信が持てているのだ。


 きっと優しい笑みで『頑張って』と、千秋が一番欲しい言葉をくれるだろう。


(俺も丸くなったよな)


 千秋は瞳を閉じ、小さく息を吐いた。

 前世で様々な事を経験しているからだろうか。

 葵との一件を除いて、ほとんど何事もなく生きている実感が未だに湧いていなかった。


 しかし、昔よりもずっと冷静に、物事を見るようになったと自覚している。

 その時学んだ事が今の千秋を形成しているのなら、全ては無駄ではなかったのだろう。


 視線をノートに落として物思いにふけっていると、コンコンと忙しないノックが聞こえた。


「は……」

「もう、遅い! さっきから何度も呼んでるのよ、せっかく作ったのに冷めちゃうじゃない!」


 千秋が返事をする前に扉が開き、葵が半ば怒りながら抗議してきた。


「あー、悪い。ちょっと考え事しててさ」


 はは、と千秋は苦笑する。

 どうやら昔の事を懐古しているうちに、一度目に呼ばれてから時間が経っていたらしい。


「え」


 その言葉にびっくりしたのか、葵が素っ頓狂な声を上げる。


「兄さんが? いつもヘラヘラして人の話を聞いてなさそうな、あの……兄さんが!?」

「おいこら、どういう意味だよ」


 化け物でも見たような驚きっぷりに、千秋は反射的に突っ込んだ。次いで、二回も言わなくてよろしい、と葵の頭を軽く小突く。


いたっ!」


 大袈裟に痛がる葵の反応以上に、自分は普段そう思われているのかと少し落胆しそうになった。


 打ち解ける以前からずっと、自分の心に嘘偽りなく行動してきたはずだ。

 それは家族だけでなく、友人らに対してもそうだった。


(ヘラヘラしてる自覚は無いんだけどなぁ)


 元来、飄々ひょうひょうとしていることは勿論、他者を揶揄からかう節があることは自負している。

 それを信頼のおける「友人」に言おうものなら、『このイケメン無自覚S野郎が!』と呆れられる事を当の本人は知らない。


(これからはもっと……自分に素直になるべきか)


 顎に手を当て、千秋は思案する。

 はっきりとしているのは、今も昔も言動に嘘を吐いていない事と、前世で傷付けた分以上に葵の力になりたいという事。

 そう言えば、葵は信じてくれるだろうか。


 しかし普段と態度が違えば、それこそ引かれてしまう事は目に見えている。

 ならばどうするか、と千秋が人知れず自身の言動にかせを付けようとしていると、葵の明るい声で現実へ引き戻される。


「って、こんなことやってる場合じゃない! もうご飯出来てるから早く下りてきて、って何回も呼んでるのよ!」


 ほんの少し拗ねた口調で言うさまは、可愛らしい以外の何物でもない。

 自然と頬が緩み、千秋は目を細める。


「はいはい、俺が悪かったよ。呼びに来てくれてありがとうな」


 つい二時間前、あまり頭を撫でるなと言われたばかりだから、ここはぐっと我慢した。

 その代わり、とびきりの笑顔を愛しい妹へ向ける。


 どうかこの先、何事もなく幸せでいて欲しい。

 そんな思いを言葉に乗せ、千秋は葵よりも先に階下へ降りた。


 一段ずつゆっくりと降りていく度、ふんわりと食欲をそそる香りが鼻孔をくすぐる。


(お、今日は肉か)


 普通よりも鼻が良いからか、肉を焼いた時に出る特有の匂いが強過ぎるからか。

 リビングへと続く短い廊下を歩きながら、千秋は知らずのうちに鼻歌を歌っていた。

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