8枚目 新しい日々へ

 次に目を開けたときには、視界いっぱいにぼんやりともやがかかっていた。

 和則から分かるか分からないかの狭間はざまで、遠くに一筋の光が煌々こうこうと輝いている。


 少しでも身動ぎをすると、周囲に一層白い靄が立ち込める。

 まるで行く手をはばむかのように、靄はどんどん和則自身をおおっていく。


 (ここは……何処だ。俺は今まで布団で寝ていたはずだろう……? それがどうしてこんな、何もない場所に立っているんだ)


 自問自答していても、一向にらちが明かない。

 和則は一度深呼吸をして、ゆっくりと全身を見回した。

 身にまとう衣服は白い着物に、着物と同じ白い帯。所謂いわゆる死装束というやつだろうか。


 数瞬の間をおいて察する。

 いや、自分は死んでしまったのだととっくに理解していた。信じたくなかっただけで。


 「……美和」


 (こんな俺のために泣いてくれるなんて、お前はどうしてそう……俺を好きでいてくれるんだ)


 元々ひねくれた性格をしていた男を、ここまで変えてくれたのは他でもない美和だ。

 ひっそりと二人だけの祝言を挙げて、子宝にも恵まれて。そうして共に老いていくまで一緒にいられると──そう、信じていた。


 最期に遺したかった想いは伝えられたから、まだマシだと思いたい。

 あの時、和則の頬を一筋の涙が伝ったことを、霞んでいく意識の中ぼんやりと憶えている。


 (もう泣かせたりなんてしない)


 もう悲しい思いはさせない。愛しい人にはずっと笑っていてほしいから。


 花がほころぶようなあの笑顔がまた見られるのなら、和則はどんなことでもしようと思う。

 来世でも一緒になれるのなら、和則の前では心から笑っていてほしいと思う。


 そう強く決意し、そろりと不安定な白い大地を踏み締める。

 きっと、あの光の先には桃源郷が広がっているのだろう。生から解き放たれた死者が、飲めや歌えやの宴をする、そんな世界が。


 和則が歩く度、靄は先程よりも強く濃くなっていく。

 けれど新しい日々を歩むことができるのなら、何も怖くなかった。

 段々と確実に、光が近づいていく。

 まばゆい光へもう少しで辿り着ける──そう思ったときには、和則の意識はそこで途切れていた。



 ◆◆◆



 どれほど気を失っていたのだろう。

 次に目を開けたときには、視界いっぱいに顔で埋め尽くされていた。


 (……誰だ?)


 顎まで切り揃えられた、烏の濡れ羽色のように黒い髪。

 髪色と同じ、少女のように黒目がちで大きな瞳。目元に黒子ほくろがあるのが、印象的な女性だった。


 「あ、起きた! おはよう、麗。んー? どうしたの? お腹空いた?」


 ぱぁっと笑みを浮かべたその人は、あろうことが和則を『麗』と呼んだ。

 すると、突然身体が浮いた。ゆらゆらと規則正しく左右に揺れる。


 少し酔ってしまいそうな感覚があるものの、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 寧ろほわほわとした眠気に襲われる。

 しばらくして、自分は抱き上げられているのだ、と気が付いた。


 (美和ではない誰かが名を呼んでいる。……いや、俺には和則という名前があったはずだろう)


 言葉を発そうとするも、はくはくと息を吸うだけで声にならない。


 「ふふ、ご機嫌ねぇ」


 そう言って、なぜだか一層笑みを深くされた。


 (何故笑っているんだ、この女は)


 何故自分は見知らぬ人の腕に抱かれているのか。

 何故自分は言葉を発せないのか。

 何故こんなにも眠気に襲われてしまうのか。


 (この女は、誰なんだ)


 考えを巡らせるも、おかしなことに頭が働かない。

 自分を見つめる慈愛に満ちたその顔を、ぼんやりと眺めているうちに、段々と瞼が重くなっていった。


 目を覚ましたばかりで眠くなどないはずなのに、不思議と意識が睡魔に襲われていく。

 自身を包み込む腕は、まるで雲の上にいるかのように優しく温かい。

 さながら揺り籠に揺られているように。


 (俺は、眠るわけに、は……)


 襲ってくる睡魔にあらがおうとするも、それもむなしくから回る。

 やがて、小さくすぅすぅと寝息が漏れ出た。


 「あら、寝ちゃった? ……もう少しお休み、麗」


 意識が睡魔に捕らわれていくそばで、そっと頬に柔らかい何かが触れた。

 それは数秒にも満たなかったが、何故か懐かしいほど安心できた。

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