ひとひらの花弁

2. 八坂 麗の懺悔と仁愛

7枚目 約束だ、愛しい人

『私は和さまのお側に居ます。……ずっと』

　いつかに美和（みわ）が言った言葉だ。

　鈴の鳴るような可愛らしい声は、しっとりと和則（かずのり）の耳に馴染んだ。

　できることならずっと聞いていたい──そう願っても罰は当たらないと信じたい。

　しかし、和則は数年前から病（やまい）に冒（おか）されている。

　この身に残された時間はそう多くないと、心のどこかで確信していた。

『本当、か……？』

　不安になり、つい尋ねてしまう。

『はい。叶う限りはお傍に』

　にこりと控えめに笑う妻が、あまりにも眩しくて愛しくて。

　この身を蝕（むしば）むものが不治の病だと分かった時、美和のことばかりが脳裏を駆け巡った。

　今、自分が出来うる限りの願いを叶えられたら、どんなに良いだろう。

　あとどれ程の時を生きられるのだろう。

　何度も何度も考えた。しかし、考えの行き着く先に自分の姿は無いということを、和則は既に分かっていた。

　愛しい人を残して逝（い）くのはどれほど淋（さみ）しく、哀（かな）しい事なのだろうか。

　それを近いうちに自分がしようとしているのだから、おかしな話だが。

　自嘲（じちょう）しても何も始まらないという事を分かっていながらも、そうせずにはいられなかった。

　◆◆◆

　大正七年。

　庭にある桜の樹が、いよいよ盛りを迎えようとしていたある日のこと。

　和則の姿は床にあった。傍には美和が静かに座している。

　その手は、まだ壮健だった数年前に比べて細くなった。それこそ、枯れ枝のように。

　｢美和。手を｣

　和則がそう言うと、美和は素直に手を差し伸べた。

　自分と同じほど細く、けれどしっかりとした手の平に、この日まで大事に隠し持っていた文（ふみ）を懐から差し出す。

　｢俺が居なくなった後にでも読んでくれ｣

　｢……何故？｣

　問い掛けられても答える気はない。

　和則は緩く首を振り、悲観的な思いを断ち切ろうとした。

　けれど。

　(そんな顔をしないでくれ)

　今にも泣き出しそうな、そんな瞳（め）をこちらに向けないでほしい。

　(残して逝くのが辛くなる)

　淋しいのはこちらも同じだ、とでも言うかのように笑みを向ける。

　｢美和。もし来世があるのならその時は……｣

　ゆっくりと確かに、美和へ手を伸ばす。濡れてもいない頬をそっと撫でる。

　(真っ先にお前を見つけるから)

　だから、どうか泣かないでくれ。そう声を出さずとも、美和は和則の意を汲（く）んでくれたようだ。

　｢……分かりました。これは預かっておきます｣

　未だ納得しきれていない声音ながらも、美和は和則の手から文を受け取り、着物の袂（たもと）へ忍ばせる。

　｢あぁ、ありがとう｣

　◆◆◆

　その日を境（さかい）に、和則の意識は混濁としたものになった。

　今日が何日であるのか、朝なのか夜なのかはっきりとしない。

　ただ、美和が傍に居るのだけは気配で分かる。

　(もう長くないのかもしれない)

　和則は漠然とした恐怖に駆られた。まだ伝えたい事、してあげたい事をできていないというのに。

　分かってはいても、美和を遺して逝く事へ未練があった。

　もしこのまま逝けば、美和は涙が枯れるまで泣くだろうな、と意識のはっきりしない頭で思う。

　その涙を自分の手で拭ってやれないことに、哀しさが一層増していく。

　せめてもの償（つぐな）いであの日文を手渡したが、読んでくれるだろうか。そこだけが気掛かりだった。

　綴（つづ）った言葉はすべて本心であり、美和のこれからを思ってこそだった。

　｢和さま、今日はいいお天気ですよ。暖かくて過ごしやすいでしょう｣

　心地よい声で美和が語りかける。この声を聞くのもこれで最後だろうな、と思った。

　少しずつ、口の中がカラカラに乾いていくのが分かる。

　｢……美和｣

　｢はい｣

　和則の発した声は空気に溶けていきそうな小さなものだったが、美和にはしっかりと聞こえたらしい。

　美和も何かを悟ったのだろう。

　夫からの最期の言葉を一言一句聞き逃すまいと、和則の口元へ耳を寄せてくる。

　｢来世こそ……一緒に生きて、幸せになろう｣

　｢はい｣

　｢必ず、見つけだすから……待っていて｣

　｢……勿論です｣

　声が震えたのは、果たしてどちらだろうか。和則か、それとも美和か。あるいは両者か。

　と、手の平に自分以外の感触があった。

　美和が和則の手を包み込んだのだ。

　しっかりと、夫の生命（いのち）の灯火（ともしび）を、ここで生きた証（あかし）を、自身に刻み付けるかのように。

　(温かい)

　感覚の無くなってくる中でそう思った。

　段々と瞼（まぶた）が重くなる。それでも、これだけは伝えなければ。

　｢あいして、る……美和｣

　そう言った後、和則の意識はぷつりと切れる。

　やがて美和の啜り泣く声と、風にさらさらと揺れて舞い落ちる桜の花びらだけが、静寂のなかに残った。