50枚目 出掛けた先で
ほんの少しの疑問を美和に残して、翌日の朝。
美和はすやすやと眠る桜を背負い、洗濯に
昨日の今日だというのに太陽は暖かく、春の陽気かと思うほどだ。
「……よし。これでいいかな」
物干し竿に干した洗濯物が風に乗ってはためき、気持ちがいい。
こうも天気がいいと、ふと一年前の事を思い出してしまう。
和則と祝言を挙げて少ししたあの日。
美和は着物を仕立てるため、一人で街に出ていたのだ。
(結局お店に出されているものを買ってしまったけれど)
ふふ、と誰にも聞こえない声音で苦笑し、そっと着物の袖を触ってその日の事を回顧する。
美和が今着ているのが、一年前に買った着物だ。
ほとんど毎日着ているため少し
(そういえばあの方のお店……ご挨拶もしていないような。確か
その日は祭りで賑わっていた。
ふと覗いた小ぢんまりとした店で、椿の簪に一目惚れしたのを覚えているのだ。
日常が落ち着いたら行こうと思ったが、すぐに桜を
(行ってみようかしら)
簪屋までの行き方は忘れないよう紙に書き留め、文箱に入れてある。
和則は昨日の件を道場に報告する、と言っていたから遅くなるだろう。
しかし、和則が美和よりも早く帰宅する場合もあった。出掛けてくる、と一言書き置けばいいだけだが、家に誰も居なければきっと心配を掛けてしまう。
「……和さまに直接言いましょう」
簪屋に行く前に道場へ寄ろうと思い立ち、美和は桜を連れて出掛ける準備をした。
「申し訳ございません。父上とお話中のため、和則さまは離席できないのです。代わりに私がお伝えしますが……」
道場の門前で、妙子にそう言われた。
妙子は申し訳なさそうに眉尻を下げ、今にも頭を下げようとする。
少し釣り上がった目尻には、うっすらとだが涙が溢れそうになっていた。
「そ、そんな! お話していると知っていて
和則に直接会えないかもしれない、という事は分かっていた。けれど、自分の口で言いたいと思ったのは美和だ。
取り次ぎの人間が出てきてくれただけ、まだマシだろう。
「でも、そうですね。一言、街に行っていると
「……わかりました! お伝えしておきますね」
それまで沈んでいた妙子の表情が、花開いたように
美和は妙子と話した事は数えるほどしかない。
その勝ち気そうな
(妙さんは可愛らしくて、慎ましくて……まるで姉さまを見ているよう)
美和には一つ違いの姉がいた。十年ほど前に不慮の事故で天に還ってしまったが、自慢の姉だった。
いつでも美和を気にかけてくれ、時々二人で街へ行って活動写真を観にいく事もあった。
楽しい思い出であると同時に、姉に会いたいという思いが強くなる。
「美和さん?」
返事がないことを心配してか、妙子がひらひらと美和の前で手を振る。
「あ、すみません、考え事をしていて。──よろしくお願いします」
慌ててぺこりと頭を下げる。
美和の腕の中で心地よさそうに眠っていた桜が起きだし、泣き出すまであと少し。
目印である
入り口であろう引き戸の傍には「
「ここがあの方のお店ね……」
外見は庶民が住む家と変わりない。
(失礼だけれど、普通のお家よりも古いような)
どこか懐かしさを漂わせるが、ここで
美和は意を決して引き戸を開けた。
「失礼致します」
律儀に頭を下げ、店に入る。
「いらっしゃい」
美和から見えない場所で声が聞こえた。
店主だろうか、と思う前に目の前の景色に感嘆の息が漏れる。
「綺麗……」
建物の質素な外見とは相まって、その中は色鮮やかな
四季折々の簪が、美和の胸ほどまである台に所狭しと置かれている。
一年ほど前の祭りで見た
蝶をかたどった飾りに、
「ん……? お嬢さん、か? 来てくれたんだな」
奥からひょこりと出てきたのは、祭りの日に出会った男だった。
祭りの日のような着崩した格好ではなく、襟元をきっちりと正した装いだ。
ゆっくりと美和の方へ足を向けてくる。
一年前と違い、長く伸ばした前髪の隙間から海のように深い瞳が美和を
「
男が近付くと、すぐさま頭を下げる。
一年ほど音沙汰もなく、店に来なかったのだ。怒られても無理はない、と覚悟した。
「いや、大丈夫だ。こうして来てくれただけで嬉しいよ」
けれど、にっこりと男は快活に笑う。
その表情が少年のように幼く見えて、少し怖いと思っていた自分を恥じる。
「その子はお嬢さんの子か?」
それどころかそっと桜を覗き込む。
「はい、昨年の末に生まれて……桜といいます」
「あーうっ!」
まるで返事をするように、桜がにこにこと手を伸ばす。
美和はその小さな手に答えながら、ゆっくりと男を見上げた。
懐からおもむろに
「桜、か。いい名前じゃないか、お嬢さんが名付けたのか?」
「そうですね……桜のように強い子になってほしいので」
何故かするりと言葉が出る。ともすれば、和則と話す以上に思ったことが口から出てしまうのだ。
あの日の異様な出で立ちといい、これもこの男が持つ
(いえ、駄目よね。男性にこのようなこと、失礼だわ)
ふるふると首を振り、考えを打ち消す。
「なぁ、お嬢さん。少し奥で話さないか?」
男の言う店の奥まった場所は入り口付近と違って、ほんのりと明かりが付いているだけだ。
「流石にそれは悪いので」
今日は顔を見にきただけ、と言っても等しかった。妙子に言付けているといっても、すぐさま家へ帰って和則を出迎えたい。
「そうか、お客から貰った菓子があるんだがな……」
「お菓子?」
引き返そうとした足を止め、ぴくりと反応してしまう。
美和は甘い菓子に目がない。桜を産んで以降は甘味を絶っていたが、久しぶりに出た言葉に興味を隠せなかった。
「そうだ。ここじゃあ駄目だが、奥に行けば菓子を出せる。お嬢さんもここに来るまで疲れただろう? 幼子を抱いてるんだ、少しくらい休憩しても罰は当たらない」
まるで
確かに少し疲れてはいるが、それよりも早く菓子を食べてみたい。
「では……本当に少しだけ」
お邪魔します、と言って桜と共に男の後に着いていった。
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