51枚目 嵐が吹く頃に

  男に連れられた奥まった場所は、小ぢんまりとした調度品やかんざしを作るであろう道具で溢れ返っていた。

 小さな座卓には、修復中らしき簪の飾りが小さな器に盛られている。

 ここで作業をしているというのが、ひと目で分かった。


 「ここに座って待っててくれ」


 男はどこからか座布団を持ってくると、ぽんぽんと叩いて「座れ」と指し示した。

 美和はありがたくその言葉に甘えることにする。といっても、桜がいるため少し窮屈な姿勢になってしまうが。


 (それにしても、中はこんなに綺麗なのね)


 起き出した桜をあやしつつ、美和はキョロキョロと辺りを見回す。

 今の今まで簪屋に出向いた事が無かったからか、目に映るものすべてが珍しく感じる。


 仮にあったとしても外から眺めるだけで、買うのは父に任せきっていただろう。

 生家にいた頃は、父に言えばなんでも買い与えてくれた。それこそ、簪を贈ってくれた事も少なくなかった。


 周りの女子たちは、女給じょきゅうをして社会勉強をしていたらしい。

 けれど美和は勉学が終わればまっすぐ家に帰ることがほとんどで、自分で何かを買うことはおろか、給金を貰ったことさえ無かったのだ。


 成り行きでしかないが、こうして自分の足でどこかへ行く事が奇跡だと思う。

 もしもあのまま結婚していなければ、何も知らない世間知らずのまま一生を終えることになったかもしれなかった。


 (私が今こうしていられるのも、和さまのお陰だもの。感謝しなければ)


 道場で則房と綿密な話をしているであろう和則に、想いをせる。

 妻にしてくれただけならいざ知らず、母にしてくれた事が一番の感謝だった。


 「さん──、お……うさん」

 「は、はい!?」


 胸が甘い想いでいっぱいになっていると、ポンと遠慮がちに肩を叩かれた。その反動で裏返った声が出る。

 慌てて呼ばれた方を見れば、心配そうにこちらを見下ろす男が立っていた。


 「待たせたみたいで悪いな。湯呑みがどこにあるか分からなくて」


 苦笑しつつ、男は美和の真正面にどっかりと座った。

 二人の間にある座卓には、男が持ってきた黒漆くろうるしの盆が一つ。その上には、花の形をした菓子と茶が載せられている。


 「わぁ、可愛い……!」


 それを目にした途端、自然と高い声が出た。

 男が持ってきたものは有名どころの和菓子だった。小ぶりな大きさで、二口ほどで食べられそうなものだ。


 桃色をした無数の花弁はなびらのひとつひとつが繊細で、まるで本物の花のよう。

 職人が手塩にかけて丁寧に作ったというのがわかる。

 湯呑みに入れられた茶は、馥郁ふくいくとした香りがただよっている。


 「本当にいいんですか……?」

 「勿論。お嬢さんのために持ってきたんだ、食べてくれ」


 くすくすと笑いながら男が盆を勧める。


 「では頂きますね」


 けれど桜を腕に抱いているためか、少し食べにくい。

 すると、男がこちらに両手を差し出してきた。


 「と、そのままだと食べられないよな。小さなお嬢さんは俺が抱いていよう」


 桜も男の手に気付いたらしい。手を伸ばし、美和の腕から移りたそうにしている。


 「すみません、少しだけお願いします」


 申し訳なく思いつつ、男に桜を任せる。

 自由になった両手で菓子盆を持って一口食べると、甘く優しい味が口いっぱいに広がった。


 「美味しいです……!」

 「そうだろう? ここの店は俺も気に入ってるんだ」


 美和がにこにこと笑えば、男もつられたように笑みを向ける。

 しばらく他愛ない話に花を咲かせ、十分に満喫したころ。


 男の腕から桜を返してもらい、美和もやっと人心地がついた。少し重い体重が愛しい。

 桜は和則以外の男が居る事が、不思議でならなかったようだ。ずっと起きていたから疲れたらしく、今はすこやかな寝息を立てている。


 「この子は可愛らしいな」


 ちょんと男が桜の頬をつつく。その表情はあまりにも優しげだ。


 (この方は、優しい方なのかもしれない)


 最初に出会ったころの妖艶な雰囲気とは真逆で、話している内容も気さくな印象を受けた。


 「あ、そういえば……」


 面と向かって話していると、はたと気付く。


 (お名前を聞いていなかったわ)


 今の今まで名をたずねていなかったことを思い出す。

 小さく呟いた美和の言葉で、何を言いたいか察したらしい。男も今気付いた、というようにわずかばかり瞳を見開いた。


 「あぁ、名乗るのが遅くなったな。緋龍ひりゅうとでも呼んでくれ」


 男──緋龍は、ゆったりとした声音でそう名乗った。


 「緋龍、さん……」


 美和は口の中で呟くように、緋龍の名を反芻はんすうする。


 「そうだ。お嬢さんは──いや、可憐な女子に名を聞くのは無粋か」


 ぶつぶつと緋龍が独りごちる。

 緋龍は普通に話しているはずだが、ぼんやりとした居心地の悪さがあった。

 

 (何、この……違和感は)


 低くかすれた声音が、まるで恋仲に言っているように聞こえてならないのだ。

 今の今まで普通に話していた緋龍が、自分の名を名乗った途端、人が変わったように感じてしまう。


 (早く、……ここから出なければ)


 得も言われぬ気持ちの悪さが、段々と美和の身体を駆け巡っていく。


 「えっと、お茶ありがとうございます。そろそろ帰らないとなので……また」


 そう言って美和は立ち上がろうとする。

 嘘は言っていないのだ。

 緋龍の店へ来て、一時間は経とうとしている。

 家を出たのは日が高く昇っていた時間だ。

 和則が道場での話し合いを済ませ、こちらに向かっているかもしれない。緋龍が仮に引き留めようとしても、これ以上長居する訳にはいかないのだ。


 男のいとなむ店に、桜を連れているとはいえ美和一人で出向いている。あらぬ誤解を生む前に、すぐにでも店を出たかった。


 和則が迎えにくるまでに立ち去らなければ、と美和の脳内でひっきりなしに警鐘が鳴っている。


 「──そんな冷たいこと言わないでくれ」


 すると、緋龍は立ち上がった美和の手首をぐいと引き寄せた。


 「え」


 ぽす、と緋龍の胸板に顔を埋める形になる。腕の中にいる桜が、むにゃむにゃと今にもむずかりそうだ。

 抱き締められている、と気付くまで数秒の時間がかかった。


 「いや、離してください……!」


 片手で緋龍を押し返そうとする。

 けれど、女の細腕で、ましてや赤子を抱いている片手で離れられるはずもない。


 「どうして? 俺はもっとお嬢さんと居たいのに」


 耳朶じだに唇が寄せられ、婀娜あだっぽい声音で緋龍が囁く。

 ぞくりとするが、それは気持ち悪さから来るものだ。和則以外の異性に触れられることが、何よりも恐ろしいと初めて実感した。


 「や、……離し、て」


 かたかたと震える身体を叱咤し、なんとか声を絞り出す。

 こうなるのならば、最初から来なければ良かった。

 こうなるのならば、あの日声を掛けなければ良かった。

 それよりも何よりも、昨夜のうちに和則に言わず出掛けた自分を恥じた。


 もしも言っていたならば、和則と共に店へ出向いていただろう。

 そして恥ずかしがりつつも、和則から簪を贈ってもらっただろう。


 仮でしかない出来事が、美和の脳内に浮かんでは消える。


 「お嬢さん」


 さらりと髪をひと房すくげられ、口付けられる。

 それだけで、今以上に恐怖を感じた。


 「ふぇ、ふぇぇぇぇん」


 唐突な声に、びくりと肩が震える。見れば、むずかりそうだった桜がわぁわぁと泣いていた。

 母の危機を感じ取ったのか、はたまた機嫌が悪くなったのかは分からない。


 「──すみません。夫が待っているので、これで失礼します!」


 桜の泣き声に驚いたのか、緋龍は固まって動かない。

 それを好機と捉え、美和は緋龍の腕の中からなんとか抜け出し、口早に捲し立てると逃げるように緋ノ龍を去った。


 「夫、ねぇ……」


 引き戸が閉まる音がしてしばらく。緋龍が呟いた言葉を聞いた者は、誰もいなかった。

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