77枚目 束の間の戯れ

 郁の部屋はつい先月小学生になったばかりの男子らしく、部屋には戦隊ものやゲームのキャラクターグッズで溢れていた。


「部屋は普通で安心するというか、なんというか……」


 千秋は郁に聞こえないよう、ぽそりと呟く。


(まぁ当たり前か、落ち着いてる方がおかしいもんな)


 本当に郁が好きな物なのかもしれないが、それは心の中に留めておく。

 あまり口に出してもかえって怪しまれるだけだ。


「えっと、座って待ってて。歌月ちゃんと飲み物持ってくるね!」


 にこにこと終始笑顔のまま、慌ただしく郁が部屋を出ていく。

 扉が閉まり、数十秒後。


「はあぁぁぁぁぁ」


 麗がガクリと膝を付き、地の底から這い出て来たような溜め息を吐いた。

 肺の中の空気が無くなってしまうのではないかと、心配になるほどだ。


「なんなんだ、なんなんだよこの家は! あいつ、俺が聞いたら『普通の家だよ!』とかなんとか言って……豪邸も豪邸じゃないか!」


 郁の声真似をしつつ、麗が声高にえる。

 この部屋の壁が防音なのかどうかは分からないが、郁に聞かれてしまえばそれこそ面倒な事になるのは確実だ。


「まぁまぁ、落ち着けよ和則サマ。俺も最初はびっくりはしたけど、慣れたらどうってこと……」

「その呼び方は止めろ、聞いててイラつく! あと、俺はお前と違ってキラキラしい所に慣れてないんだ!」


 千秋の言葉を、麗が今にも噛み付かんばかりに遮った。


「お、おう」

「大体なんなんだ、普通の住宅からいきなり「豪邸です」って顔した家が出てくるとか……そんなのテレビでも観た事ないぞ!」


 どうやら麗はご立腹らしい。

 少し肩の力を抜いてもらおうと思ったまでの言葉も、届かないと来ては余計なことは言わず黙るしかなかった。


(しっかしこれはまた)


 怒る気持ちは分かるが、こうしてキャラクターグッズに囲まれた麗を見ると、あまりにも子供らしく思う。


「……可愛いな」

「あぁ?」

「おっと、悪い。つい」


 無意識のうちに声に出ていたらしく、過去一低い声が麗の唇から放たれた。


「ぜっっっったいに悪いと思ってないだろ?」


 猜疑心たっぷりの瞳を向けられるも、千秋にとっては可愛い抵抗でしかない。


(葵にもこんな時期があったな〜)


 それ以上に、幼い頃の葵の姿と麗が重なっていた。

 その時の葵は今よりも癖毛が酷く、いつもポニーテールをしていたものだ。

 麗のように怒る事はなかったものの、時々小さな喧嘩をした後、潤んだ瞳で『千秋にぃのばか』と言われた。


 それまで身内から直接悪口を言われた事がなかったからか、悲しさなど微塵もなかった。

 むしろ嬉しく、部屋に掛けてあったカレンダーに『葵に怒られた』と書いたものだった。


(待てよ、今考えたら俺ってそっちの気があるのか?)


 自分に被虐趣味があるなど微塵も信じたくはないが、きっと昔の自分は毎日が楽しかったのだろう。

 初めて可愛い妹ができ、多忙だが優しい両親にも恵まれ、千秋の日々は充実したものだった。


 過去は過去で今は今でしかないが、それでも今の方が楽しく感じる。

 こうして何気ない事で怒り、泣き、人は成長していくのだろう。


(人間ってのは本当……化けるよな)


 千秋が思考を明後日の方向に飛ばしている間も、麗の可愛らしい抗議は続いていた。

 座っている膝を小さな拳で叩き、あらん限りの悪口の語彙を言葉に乗せている。


「おいこら、なんとか言え馬鹿千秋!」

「うぉ!?」


 突然耳元で叫ばれ、キィンと鼓膜が震える。


「びっくりするだろ!」


 幼い子供の声は特別高過ぎるからか、これには千秋もたまったものではない。


「うるせぇ! お前が撤回しないから悪いんだろ!」

「撤回ってなんだよ、撤回って!」

「撤回は撤回だ馬鹿!」

「馬鹿って言った方が馬鹿、って知っての言葉かよそれは!」

「ふ、ふふ……っ」


 唐突に二人の耳に小さな笑い声が入ったことで、言葉の応酬を止める。

 声がした方を向くと、それまで黙って傍観していた葵が、ころころと笑っていた。


「葵……?」


 麗が戸惑ったような声を上げる。

 どうやら何故笑われているのか、分かっていないらしかった。


「や、ごめんなさい。二人とも、私の知らないうちに仲良くなってるから……つい」


 すみません、と小さく頭を下げて謝罪する。

 そんな葵の行動に怒る気力さえ無くなったのか、麗は一つ溜め息を吐いた。


「兄妹揃って『つい』で許されると思うなよ。……葵は許すけど」


 麗は一瞬怒った顔をした後、ふいとそっぽを向く。

 その表情は千秋から見て照れているようにも見え、拗ねているようにも見えた。

 しかし葵だけ許され、千秋は許さないなど割に合わないのではないのだろうか。


「俺は? ねぇ、俺は?」


 いや、そもそも麗が千秋の知る以上に嫁バカなだけか。

 どちらにしろ、麗とはこれから義理の兄弟になるはずだ。ここで機嫌を損ねられては、これからの関係に傷が付く。


(再会して一日ちょいでヒビが入って堪るか!)


 前世では恋敵(仮)で因縁の相手、今世では義理の兄弟という、これ以上の昇格はないだろう。

 千秋は藁にもすがる思いで、麗の視界に入ろうとした。


「お前とはしばらく口効かん」


 しかし、目線を合わせようとする以上に麗にそっぽを向かれてしまう。

 こればかりは本気で怒っているようだった。


「しばらくってどれ──」


 くらい、という千秋の言葉は後少しのところで途切れた。


「お菓子とジュース持ってきたよ〜!」


 満面の笑みの郁と、その背後から二つのトレーを持った歌月が入って来たからだ。

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