10枚目 桜の季節、俺達は

 やがて六年の時が経った。

 桜が舞い降る季節。和則──もとい麗は六歳になった。背丈は同年代の子に比べてやや小さいが、それでも健康なまま過ごすことができた。


 そんな麗は、この春から小学校へ入学する。今日はその門出なのだ。

 今日のためにおろしたという制服。膝下まである黒いズボンを穿き、汚れひとつない真っ白いシャツを着る。首元には黒い蝶ネクタイを締め、揃いのブレザーを羽織る。

 最後に真っ黒なランドセルを背負うのだが、まだ早い時間だ。

 鏡の前で一度背負ってみたが、我ながら馬子にも衣装だと思った。


 (……今日からまた同年代と過ごすなんて、無理に決まってる)


 幼稚園に入園した時も憂鬱だったのに、小学校に入学したら基礎中の基礎である読み書きの勉強。

 麗は一通りの文字を読めるし、書くこともできる。早希が入学の一年前──麗が5歳の誕生日を迎えた時、ケーキと一緒に買ってきたという『5さいからはじめるひらがな』やら『5さいからのさんすう』やら……所謂いわゆる英才教育の本だ。

 誕生日に勉強用の本を買い与える親とは、と疑問に思ったが、これも親心なのだろうと理解しようとした。しかし、麗の中身は大人なのだ。


 最初こそ「もう字は書けるから大丈夫」と豪語した。実際そうなので間違いは無いのだが、「じゃあ書いてみて」と言われ、紙と鉛筆を持たされた。

 果たして、いにしえ過ぎてだろうか。早希から「上手ね〜」と笑い混じりの声で言われた。その声には慈しみが込められている。

 けれど、早希が「え、なんて読むの……?」という困惑している心の声を肌で感じ取った。


 絶対にあっと言わせてやる。そう思ってからの麗はというと、凄まじいまでの成長をした。

 崩し気味で分かりにくかった字は、はっきりと書けるようになった。


 読みは現代の音読に多少手間取ったというだけで完璧だ。

 という経緯を経て、麗は自身の誕生日から一ヶ月足らずで現代の読み書きをマスターしたのだ。


 元々何かを覚えることに対して苦手意識はなく、一度見たらすぐにできる。前世でもそうだったのだ、今更なんということはない。


 ただ失念していたことといえば、小学生らしからぬ落ち着き過ぎた点。この時期ならば少し、いや、かなりやんちゃでも多少は許される。

 どうやら六年の歳月は前世の性格がそのまま出てしまったようだ。「大人の男」という、本来の性格が。



 ◆◆◆



 春の陽気に違わず、早希はバタバタと慌ただしく家中を駆け回る。

 あれが無い、これが無い、果てにはあれやったかこれやったか。

 クルクルとよく動くな、と麗は上の空で思った。


 今は三面鏡の前に座って、手早く化粧している途中だ。

 そんな早希の後ろでは、三角座りで虚空を見つめている麗がいた。

 着替えも準備も一通り自分でできるから、なんということはない。けれど、ここまで女性の化粧には時間がかかるのか、と早希の行動を見てて思う。


 「麗、後ほんのちょっと待って! もう少しで終わるから!」

 「ゆっくりでいいよ、母さん」


 本当にゆっくりでいい。少し遅れる方が丁度いいのだ、今日から始まろうとしている生活を思うと。


 (しかし暇だな……)


 部屋の時計は九時になろうかとしている。

 何はともなく、二時間前の出来事に思いを馳せる。そうしたら時間がすぐに過ぎていくだろうから。



 ◆◆◆



 その時の麗は、何を思ったか家の近くにある公園へ足を向けていた。何故だか「美和」に会える予感がしたからだ。その理由は自分でも分からないが、早く行かなければと思った。


 やがて大きな桜の樹の前へ辿り着く。

 麗の身長よりも遥か高くにそびえる花弁は、はらはらと舞い落ちて足元にピンク色の絨毯じゅうたんが広がっている。

 そのさまをぼぅっと見ていると、どこからか足音が聞こえてきた。


 (もう来たのか……)


 いきなり家を飛び出したから、早希が慌てて追い掛けてきたのだろうな、と思った。

 そもそも麗に責任があるのだ。すぐに謝らなければ、と気持ちを切り替えて振り向く。


 けれど、違った。

 光の反射で少し青みのかっている黒髪。

 麗を見つめるどこまでも深く、けれど海を思わせるような黒目がちの瞳。

 記憶と違うことと言えば、格好くらいだ。和の体現とも言える着物をまとっていたのが、今は紺色のブレザーに身を包んでいる。


 麗の目には、美和その人が現れたのだと本能的に理解した。

 心の奥深く、もっと深いところで求めていたような。泣きそうだけれど嬉しい、そんな感情が溢れ出す。


 「美和……?」


 気付いた時には、前世の愛しい人の名を呼んでいた。

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