24枚目 人は人
最初は虫刺されかとも思った。
けれど、今の季節は春から初夏になろうとしている頃。
仮に蚊に刺されたにしても掻きむしった痕跡はなく、
『早希、じゃないよな』
ハハ、と思わず乾いた笑いが口から漏れる。
昨日自分は家に帰っていない。なんならホテルで目が覚めたのだ。どう考えたらキスマークが付くのか。
(まさか、な)
将英の頭の中におかしいという疑問が浮上した。
女と寝た、という想像したくもない仮説。
もしこれが本当ならば、早希は将英から離れて行ってしまう。
そう、結婚する前に約束したのだ。どちらかが浮気をしたらその時点で終わりだ、と。
昨日の自分がした行動は覚えていない。
営業部の女子に言い寄られた後の記憶がぱったりと無くなっているから、何かがあったのならばその後。
そしたら目が覚めた時の状況に、ある程度説明が付く……はずだ。
(……俺は何も見ていなかった。そう、幻だ。酒を飲み過ぎて幻覚をみてるだけだ)
そうだ、そうに違いない、と暗示をかけなければやっていられない。
それに伴ってか、頭が痛くなった。
ガンガンとした痛みがあるから、きっと二日酔いだろう。ぼんやりとながら「早希に味噌汁を作ってもらおう」と場違いなことを思う。
(服の上からじゃ分からないし、そのうち薄くなるだろう)
目の前の問題から、はたまた頭の痛みから逃げるようにきつく
ごちゃごちゃとした思考が少しは落ち着く気がした。
『よし、飲み行くか!』
キラキラとした笑顔で誘ってくる同僚の顔を、本気で一発殴ってやろうかと思った。
片桐の机の上には、営業先の資料や来週控えているプレゼン資料の一枚も無く、勿論パソコンすら立ち上げていない。
反対に将英には、終電までに終わりそうな案件が二つある。これを終わらせて早く帰りたい一心で、キーボードを叩いて叩いて叩きまくっているのだ。
(こっちは必死こいて終わらせようとしてんのにお前は……嫌味か? やることが遅い俺に追い討ちをかけようって腹なのかこいつは!)
勿論、将英に任せられたはとっくに終わっている。しかし終わったかと思えば次、終わったかと思えば次、と部下や上司が仕事を持ってくるのだ。
それもこれも仕事が早いと社内で有名な将英の力なのだが、肝心の本人は自分の実力に気付いていなかった。
『あー……今日は』
『早希ちゃんとチビちゃんが家で待ってるからだろー? 分かってるよ俺にも。さすがに
やめとく、という将英の言葉を遮り、片桐がスラスラと紡いだ言葉に呆れてしまった。
(……俺に残業が無い時の言い草だろ)
はぁ、と知らず知らずのうちに溜め息が出る。
要は片桐が言いたいことはこうだ。「あとの事は残ってる誰かにやらせればいいから飲みに付き合え」と暗に言っているのだ、この男は。
営業部内には将英と片桐の他にも社員が数人残ってる。今すぐに頼めそうな者といえば、自分に仕事を押し付けた部下。
その部下も鼻歌交じりに帰宅準備を始めていた。
将英は姿を認めると、ガタリと椅子から立ち上がって部下のいるデスクまで歩み寄る。
ひゅぅ、と片桐の口笛がすれ違いざまに聞こえた。
『よ、お疲れ。ちょっといいか?』
『八坂さん。あ、俺は帰るんでまた……イテテテ!』
明日、と言おうとした部下の手首をギリリと
(面倒な案件は俺にぶん投げる精神、どうにかしろよ社会人四年目のくせに)
将英はイラついた感情をおくびにも出さず、部下の顎を摑んでこちらに向かせる。
『帰ろうとしてるところ悪いんだけどな、俺はまだ終わってないんだよ。お前が寄越してきた仕事のせいでさ。──こっちは既婚者なんだ、少しは先輩を労わってくれても良いだろ?』
お前が、のところをわざと強調させるようにゆっくりと言う。将英が放つ言葉には塵ほども悪意の欠片は無いが、部下が将英を見る瞳には
『で、提案なんだけどな。家で可愛い子供と嫁が待ってるんだ。久々に定時で帰ろうと思うんだが、これがどうして終わらない。な、ちょっとでいいから手伝ってくれないか?』
さも大変だというような表情を作ったかと思えば、ニコニコと笑顔で言うものだから聞かされている身としてはたまったものではないだろう。
『返事は?』
『ひ、ひゃい……』
『よろしい──じゃあやるか』
ガクガクと足が震え、今にもくずおれそうな部下の手首をパッと離す。
やはりがくりと力が抜けたようで、将英が仕事を持ってきてもしばらく立ち上がれそうになかった。
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