54枚目 懐かしの再会
季節は程なく過ぎ去り、やがて年が明けた。
大正三年、初夏。
太陽が人々の頭を
そろそろ暑くなるな、と薫が一人思いを巡らせていると、その客は唐突にやってきた。
『は……? そりゃあ本当か?』
薫が新しく作った簪を棚に陳列しようとしていた時のことだ。
店に入ってきた男は挨拶もそこそこに、薫に要件を切り出したのだ。
そのすべてを聞いた途端、薫は絶句する。
(父さん、が……
壮健であった父が昨年の暮れから病に
目の前に立つ男も、未だに信じられない、という表情だ。
かっちりとした
『はい。ですので一度お戻りになってください。旦那さまのためにも、薫さまのためにも……いえ、
薫の目の前にいる男は、鷹司家の執事である
年齢は五十をゆうに超えているはずだが、見た目以上に歳を重ねているように感じる。
遠野も
『けど、店を閉めるわけには……』
店を始めて一年近くが経つ緋ノ龍は、少しずつだが客が増えてきた。
今では特注の簪を作ってくれ、と月に一度の依頼が来るほどだ。
今年から少しずつ忙しくなるだろう、と思った矢先に父の危篤の
一目でも会う方がいいと頭ではわかっていても、どうしても店のことが気になってしまうのだ。
『遠野、すまないが』
『──薫よ、なんのために
薫の言葉に被せるように、聞き慣れた声がほど近くから聞こえた。
見れば、一階と二階を繋ぐ階段からこの家の主である坂城
『そうよ。私たちを頼ってくれなくては』
そのすぐ後ろには、妻である
『清さん、幸さん……!』
薫は驚きと動揺が、ないまぜになった視線を二人へ向ける。
普段ならば夫妻が一階へ降りてくることはない。
あったとしても店が閉まる少し前に降り、買い物へ行くくらいだった。
『お父上との対面が今日で最後になるかもしれんのだ。この際、しっかりと話してきなさい。店は儂らに任せて、お前は行っておいで』
ぽん、と薫の肩を叩き、春清が
『いや、でも……』
尚も渋る薫に
『お前は血の繋がった父親をも気遣えん不孝者か?』
ぴくりと唇が引き攣る。
父とは確かに血が繋がっているが、可愛がられた記憶は無いに等しい。
母からの愛も、存分に与えられたとは言えなかった。
(俺が……不孝者? 途中までは孝行してやっただろうに)
二十年ほど前の話だ。
長男として、ひいては鷹司家を盛り立てていく男として、勉学に
父や母の傍へ行きたくても、いつも誰かが傍に居たことで自由も無いに等しかった。
それでもずっと我慢した。
この時間が終われば、両親に褒めてもらえる。良い子だ、と頭を撫でてもらえると。
けれど、そんな日は一向に来なかった。
父や母の元へ行きたくても、いつも二人の近くには誰かが居た。薫が少しでも傍に寄ろうとすると、冷めた瞳と声音で
──今は忙しいんだ、後にしてくれ。
──お勉強は終わったの?
──何をしにきた? 早く部屋に戻りなさい。
──貴方の相手をしている暇はないの。
取り付く島もない両親に、そう何度となく言われてきた。
まだ十にも満たない年齢から、中学校を卒業するまで続いたのだ。
だからか、薫の遊び相手や話し相手は自然と遠野や他の使用人だった。
そのことに少しも寂しいとは思わなかった。
自分が立派な人間になれば、両親は薫の方を見てくれる。振り向いてくれると、ずっと信じてきたのだ。
父は薫を立派な次期当主にしようと、奮起していた。
何をしようと、誰といようと──父の側近がどこかに居たのだろう──逐一父の書斎へ呼び出され、時に「鷹司の名に恥をかかせるな」と激怒されたりもした。
母は薫よりも、下の弟や妹を可愛がった。
その事に寂しさも覚えるが、薫には一つだけ楽しみで、早くその日にならないか待ち遠しかった日があった。
月に一度、必ず母と過ごせる日があるのだ。
いつも冷淡な視線を向ける母が、唯一薫に甘い日。
月末になると、朝から晩まで母と居る事を許される。
他の弟妹たちよりも共に過ごす時間は少ないが、月末には母と一日を過ごせるのだ。
にこにこと話を聞いてくれる母が、薫は大好きだった。
そのたった一日が、薫が勉学を頑張れる原動力になっていた。
けれど、ある日の両親の話を聞いて以降、薫は何もかもが面倒になった。
その日は遅くまで明日の予習をした日の事だった。
自室へ戻ろうとした時、扉から小さな
そこには両親が楽しそうな表情で、声で、談笑していた。
早く部屋へ戻った方が良かったが、薫は聞き耳を立ててしまったのだ。
薫が居れば鷹司の家は安泰だと、父は言った。
毎月必ずある薫を甘やかす日が苦痛だと、母は言った。
父がそう思うのは分かっていた。勉学は、父に振り向いてほしくてやっていたのだから。
けれど、母がそう思っているとは思わなかった。
いや、心のどこかで分かっていたが、気付かないふりをしていたに過ぎない。
母が薫に向ける笑みは
実際はぎこちなく、ともすればずっと相槌を打たれていただけに過ぎない。
そこで薫は確信した。
父や母は薫を「もの」としか見ていない、ただの駒なのだと。
すべては鷹司家を後世まで伝えていきたい、という私欲に
まだ中学校に挙がったばかりだった薫は、そのことが酷く悲しかった。
気付いていなかったわけではない。
しかし今まで頑張ってきた事すべてが、両親の手の平の上で転がされていたのだと思うと、吐き気がした。
両親の思い通りになるくらいなら、爵位は継がない。
そう密かに計画し、数年が経った。
表向きは良き次期当主として、父の側で勉学に励んだ。心のどこかで、この家から出ていくんだ、と思いながら。
そうして、きっかけが巡ってきた。
薫が二十五の誕生日を迎えようとしていた頃、父から「爵位を継いでほしい」と言われたのだ。
薫はその場で断ったが、父が許すはずもなかった。
大好きだった母からも目の敵にされるのは悲しいが、爵位を継がない方法はこれしかない。
屋敷の皆が寝静まった頃を見計らい、簡素な置き手紙を残して薫は鷹司家の門扉を出た。
そうして、坂城夫妻の家へ住み着いて一年ほどになる。
今更、父が危篤だからと言われても帰る気にはなれなかった。否、帰りたくなかった。
(俺は、どうすれば)
ちらりと遠野の方を見ると、目を逸らすことなくじっと薫の言葉を待っていた。
現当主である父と鷹司家を盛り立てようと、共に
ややあって、遠野が口を開く。
『老い先短い年寄りめの、今生の願いにございます。薫さま、どうか』
平にご
薫はそのさまを見て、ぎゅうと手の平を握り締める。
(遠野には敵わないのかもしれないな)
幼い頃から遊び相手や話し相手になってくれた「爺や」に改まって言われては、どんなに意思が固くても、最終的には肯定しているのだ。
『……わかった』
しんと静まり返った店の中に、薫のはっきりとした声が響いた。
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