第2話 始まりは突然?
外では身を凍らせるような冷たい風が吹き、無情にも生ある物の体温を遠慮なく奪う季節となっている。
そんな厳しい寒さを
そう、部屋の中は温度こそ下がれど、凍える寒さから身を守る程度には温度が保たれているからだ。
そんな部屋の中では、まるで
しかし、この部屋の主である
その姿は、まさにヤドカリか亀のようだと表現できるだろう。
ところが、そんな彼も人の力には勝てないようだった。
「いい加減に起きなさい! 遅刻するわよ」
その者が叫び続ける目覚まし時計のボタンをガチャンと押し、昴の被る布団を
「さむいよ、母さん......もう少し寝かせてよ。四時まで勉強してたんだから」
一人っ子であり、甘えん坊に育った昴は、そう言って無駄な抵抗を試みたのだが、世の中とは非情である。いや、理不尽である。
「それはそれ、これはこれよ。どれだけ勉強したって、試験に間に合わなかったら意味がないでしょ。今から早く起きるように
恐ろしく理解不能な理論を振りかざす母親の
――ちぇっ、もう少しくらい寝かせてくれたっていいじゃん。
それを口に出せば、それはそれで大変なことになるので、昴はそんな気持ちを心中に押し留めていると、母親はそんな彼の様子を気にする事無く口を開いた。
「ご飯の用意はできてるから、さっさと顔を洗ってきなさい」
「ふぅあ~い!」
そういって部屋を後にする母親に向けて、甘ったれの昴は大きな
――はぁ、いつまで続くんだろう。って、もう入試だし、あと少しの辛抱だ。そうすれば華の高校生活が始まるんだよね。
いや、それは妄想のし過ぎである。高校生活とは決して昴が思っているような華のある世界ではない。
ただ、これは昴に限らず、誰しもが通る道だろう。そして、思うのだ。高校生になっても何にも変わらないと。
まあ、そんな話をしても当の本人に理解できる訳もないのだが......そうとは知らない昴は体を伸ばし終わると、そそくさと着替えを始めたのだった。
両親が頑張って購入した家は、お世辞にも広いとは言えないが、それなりに快適に暮らせる家だった。
だからと言って、昴になんの不満も無い訳ではない。
――もう少し厚い床にして欲しかったよね。流石に毎晩のように聞こえてくるのは辛いんだけど......まあ、夫婦仲が良くて元気な証拠だといえば文句も言えないけど......
そう、昴が声にできない不満を語るように、彼の両親は絶倫だった。いや、一階と二階の板は思いのほか薄かったといった方が良いだろうか。
――だけど、思春期の息子のことも考えて欲しいよな。こっちだって興味が無い訳じゃないんだから。でも......それにしては兄弟ができないよね。できれば妹が欲しいんだけど......僕に似た可愛い妹から「お兄ちゃん!」なんて呼ばれたいのに......
それは無理である。己が顔をもう一度しっかりと鏡で確かめるべきなのだ。故に、妄想を
しかし、兄弟に関しては昴の言う通りであり、毎晩のように頑張る割には、全く彼の兄弟ができる様子はなかった。
実をいうと、その理由は簡単なのだが、彼の両親の情事を話しても仕方がないので割愛することにしよう。
思春期の真っただ中で、ここ最近は異性に興味があり過ぎる昴は、心中で不平を漏らしながらも、自室の二階から一階のリビングへと移動した。
リビングに入ると、直ぐに昴の食欲をそそる匂いが漂ってくる。
――おお、今日はシャケの塩焼きと卵焼きだ。やった! 僕の好きな物ばかりだ。どうしたのかな?
テーブルの上に置かれた朝食を眺め、嬉しさを感じながらもその理由を考えていた昴だが、恐らくその原因に辿り着くことはないだろう。いや、現時点の彼が知る必要もない事だと言えるだろう。
何故ならば、それは単純に昨夜の営みが母親の気分を良くしただけなのだから。
そんな事情を知ることもない昴は、考えるのを止めて自分の席に腰を下ろす。
すると、機嫌の良い母親がご飯とみそ汁を彼の前に置き、視線を別方向へと向けた。
「あら、やだ。また誘拐? 最近多いわね。私も気を付けないと......昴も気を付けてね」
そう口にした母親の視線の先には大きなテレビがあり、朝のモーニング番組がこのところ
――いやいや、母さん。
思わず突っ込みを入れそうになった昴だが、それを何とか胸中に押し込めて食事を始める。
ただ、彼の頭の中では、その誘拐事件について思考していた。
――でも......他人事でもないんだよね......だって、クラスの女子がこの被害に
そう、昴は密かに若菜春香に恋をしていた。しかし、許さないといっても彼に何か出来る訳でもない。それでも、彼の
既に入試シーズンとなっている学校では、授業の内容も
席に座る生徒も全員が揃っておらず、自習となる授業も多いのだ。
それでも、まだ入試が終わっていない昴は必死に勉強する必要があった。
本日最後の授業の終わりを知らせるチャイムがなり、そんな昴が帰り支度を始めたところで声を掛ける者が現れた。
「なあ、すばる~、カラオケでもいかね?」
その男は小学から一緒のクラスになることが多かった者であり、数少ない昴の友人である
彼は既に入試を終えており、暇を持て余しているのだろう。
故に、一緒に遊べる相手を探しているようだった。
ところが、未だ二つの入試試験を残している昴はそれどころではない。
「むりむり、試験勉強しなきゃ」
本当は気分転換に行きたいところなのだが、現実を考えるとそうもいかない事を理解している昴は、進と一緒に教室を後にしつつ申し訳なさそうに断りを入れる。
すると、その友達は残念そうに話し始めたが、その様子は少し心配そうなものだった。
「ちぇ、まあ、入試も残ってるし、しゃ~なしか。それにしても、昴は相変わらず真面目だな~。結局、クラブにも入らずに勉強ばかりしてたし......でも、少しは体も鍛えた方がいいぞ。高校に行ったら虐められるかもしんね~ぞ」
確かに彼の言う通りなのかもしれない。
なにせ、不良から絡まれたところを彼に助けてもらった場面は数知れないのだから。
その恩を忘れていない昴は、頷きながら彼に答える。
「そうだね。入試が終わったら、少し体を鍛えようかな。ねえ、
「おお、いいぞ~いつでもうちの道場にカモ~ンだ。それにここ最近は物騒だしな。護身術ぐらいは身に着けた方がいいぞ」
そう、森川の家は空手の道場をやっており、昴の友人である進は有段者なのだ。
「うん。分かったよ。そうする」
どちらかというと運動が苦手で、勉強ばかりしてきた昴は、ハッキリ言ってカツアゲの良いターゲットだといっても過言ではない。
それでも、これまでのピンチは進のお陰で大事に至っていないのは幸いだった。
そんな訳で、昴は素直に進の言葉を受け入れると、校門まで来たところで帰る方向の違う彼と別れることにした。
「じゃね! 進」
「ああ、気を付けて帰れよ。カツアゲなんてされるなよ」
「うん。人通りの多い道を通るから大丈夫さ」
そう、腕に自信のない昴は、必ず人通りの多い道を通って帰るようにしていたのだ。
逆に言えば、それが彼の処世術であるとも言えるだろう。
そうして進と別れて帰路に就いたのだが、そんな昴の前に一人の少女が現れた。
えっ!? なんで?
そこに少女が居ること自体は何の不思議もない。なにせ、ここは天下の往来なのだから。
ただ、昴が不思議に思ったのは別のことだ。
――なんで、こんなところに巫女服の少女が居るの? てか、僕をじっと見ているような気がするし。
いや、気のせいではない。彼女は間違いなく昴を凝視していた。
――ん~、やっぱり僕を見ているんだよね? あの雰囲気だと僕とあまり変わらない年齢に見えるんだけど......あんなに可愛い知り合いはいないし......それにしても、なんで周りの人達は気にせずに通り過ぎてるんだろ?
その少女のことを考えていた昴だったが、周囲の人々の様子に気付いて首を傾げてしまった。
ところが、次の瞬間に昴の手は何者かに握られた。
「うわっ! 誰!?」
突然、誰かに手を握られたことで慌てた昴が声を上げたのだが、周囲の人々は全く無反応だった。
しかし、誰かに手を握られたことに気を取られていた昴は、そのことに気づく事無く己の手に視線を向けて驚くことになった。
「えっ!?」
そう、それまで視線の先に居た巫女服の少女が昴の手を握っていたのだ。
あの一瞬で、どうやってここまで来たんだろう。いや、それにしても可愛い女の子だな。
あまりの移動速度に驚いた昴だったが、そこで気付くべきだったのだ。その移動の速さは人間ならざる者の所業だということを。
しかし、可愛い少女に手を握られて舞い上がっている昴には、その結論に至ることはなかった。いや、それ以前に、己に起こっている状況すら把握することが出来なかった。
ただ、その少女が悲しそうな表情で口を開いた時に、昴は己の体が薄くなっていることに気付く。しかし、その疑問も彼女の言葉で打ち消されてしまう。
そう、彼女はこういったのだ。
「ごめんなさい。許してください......」
彼女が悲痛な表情で
そこは薄暗い部屋だった。
しかし、その部屋の中央の床には
「どうかね。今回も成功しそうかな」
幾何学模様の側で祈りを捧げる巫女服の少女に、落ち着いたスーツ姿の男がそう声を掛けた。
しかし、その少女はそれに応じる事無く、ただ
「ちっ!」
黒服の男は、少女からの返事がない事に腹を立てたのだろう。誰もが気付くであろう程の舌打ちを鳴らしたかと思うと、再び口を開いた。
「召喚されたら、研究所に移送しろ。そのあとは何時もの通りやっておけ」
「
黒服の男が忌々し気にそういうと、後ろに控えていた若い男が頭を下げつつ答える。
直ぐ近くでそんな遣り取りが為されているのだが、瞑目したまま必死に祈りを捧げる少女は、微動だにすることはなかったが、その声を聞き漏らすこともなかった。
――本当に最低な人達だわ。こんな人達の言い成りだなんて......ごめんなさい。でも、これしか方法がないの......
少女は祈りを捧げつつも、声なき言葉で召喚されるであろう少年に謝罪する。
すると、床に刻まれた幾何学模様の真ん中に何かの影が見え始める。
それは徐々に形を成していき、最終的には人の姿となった。
そう、そこには人が俯せの状態で現れたのだ。そして、次の瞬間、幾何学模様の発光が収まって室内が暗闇となった。
――これで五人目だわ......でも、彼が来たからには......ああ、もう体力の限界なのね......
少女は召喚者の事を考えていたのだが、己の限界を感じたところで意識が遠のいていくのを感じる。
この少女にとって、この儀式は神聖なるものであり、尋常ではない精神力と体力を消耗する。それは、この後に半年の眠りを強いる程のものであり、彼女は一年の殆どを夢の中で生きることを強いられているのだ。
意識がなくなる寸前、彼女はなけなしの力を振り絞って口を動かす。
「
その言葉は、誰の耳にも届くことなく消えていく。勿論、幾何学模様の真ん中で、巫女服の少女とラブラブな夢を見て、見事なほどに鼻の下を伸ばしている昴にもだ。
これこそが、己が意思を尋ねられることさえ無く、強引に異世界へと連れてこられた昴の始まりとなるのだった。
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