第二章 20 甲神学園

 週始めの朝礼を終えた舞は、栄養部のオフィス内で、十時からの回診資料を準備していた。その時、舞の院内用スマホが振動した。優子からのメッセージだった。優子に急用が入ったため、今日の回診は、角倉と替わったらしい。


 舞は、鞣し革のブック・カバーを院内用のバッグに入れた。舞は、渡り廊下を足早に歩き、八号館の精神科病棟へ向った。精神科病棟の事務室に行くと、角倉の姿があった。看護師の桑本咲と話している。舞の姿を見ると、角倉が爽やかな笑顔を向けた。


「舞ちゃんと回診できるとは光栄だね。独自の栄養分析を、存分に聴かせてもらいたいね」


 咲が、鍵棚から鍵束を取り出しながら、舞に笑いかける。角倉が先頭に立って、優子と自身の担当患者の病室に向かった。


 今日の回診も、患者からは、「眼鏡を盗られた」とか「覗き見があった」など、事実か? 幻想か? 判断しかねる訴えが多かった。


 舞が食欲を尋ねても、まともな回答が返ってくる確率は低い。


「不味い」、「量が少ない」、「好物が出ない」といった苦情が大半だ。患者番号と苦情内容をメモし、患者の顔色や体型を素早くチェックした。不服を言いながらも、血色が良くなっていたり、浮腫が改善されていたり、些細な変化が見つかるケースも多い。


 四階の女性の大部屋、五階の男性の大部屋の回診が終わった。精神科病棟の事務室で、資料の受け渡しを済ませると、舞は角倉と共にエレベーターに乗った。一階に出ると、揃って教育棟へ向った。


「優子先生の急用って何だったのでしょうね。もう研究室に戻っているといいのですが」


 舞が呟くと、角倉は、さほど真剣に受け止めていない表情だった。


「緊急の教授会かな? 理事会だったかな? それに呼ばれたって言ってたよ」


 回診で疲労を感じているのか、角倉は空に向かって手を伸ばし、欠伸をしていた。


 今朝、白姫側の佐伯家が創設した甲神学園は、角倉の出身高校だと、荒垣から聴いた。舞は、質問するなら今だ、と察した。


「仕事の話では、ないのですが……」


 前置きをすると、舞は角倉の様子を伺った。いつもと同じく、質問しやすい、オープンな雰囲気だ。角倉は頭をブルっと振るうと、スッキリした表情で舞の顔を見た。


「失礼。回診後の疲れは、早く取っておかないとねぇ。何かな?」


 舞は、楽し気に見えるよう、口を開いた。

「土曜日にサイクリングで、神山町の迎賓館まで行ったのです」


 角倉が、驚いた顔で舞を見る。

「急な坂道なのに、あそこまで、自転車で行ったの?」


「マウンテン・バイクなので、ギアを入れ替えたら楽勝ですよ」


「俺は、歩きでも、あの坂は応えるよ~」


「あの迎賓館、元は白姫酒造の本家だったそうですね。あの辺にある進学校の甲神学園も白姫酒造の本家が創設者だと聞きました」


 舞は、チラリと角倉の顔を見た。予想通り、反応した。


「あの学校ね、実は俺の出身高校なんだ。中高一貫だから、中学受験で入った訳だけど。小学生の時は、これでも神童だと言われていたんだ。だけど入学したら、俺より頭の良い奴らの集まりで、一気に落ちこぼれてしまったよ~」


 角倉が懐かしそうに語っている。


「医者になっておいて、落ちこぼれとは、ご謙遜ですねぇ」と、舞は茶化した。


「あの学校ね、国公立大学へ進学するのが当たり前って風潮なんだ。だから、私大進学組は、同窓会に行きにくいよ」


「頭の良い人たちには、別次元の悩みがあるものなんですね。そんなに学校の勉強が、厳しかったのですか?」


「商売人の人たちが創設した学校だからね。いかに無駄なく、短時間で、多くの知識を修得できるか? 学科より先に、要領のいい勉強法の訓練があるんだ」


「いいですね。私も中学生の時に知っていたら、もっと頭が良くなっていたと思いますわ。進学校なら、変な学園の伝説とか噂話とか、ないでしょうね?」


 角倉が愉快そうに笑う。


「学校の教訓のお蔭か、ガリ勉の奴は意外と少ないよ。俺がいたころはまだ男子校だったけど、変な噂話もよく流れたね。創設者一族の家系が複雑で、隠し子説だの、お妾さんの息子がいるだの」


「思ったより、普通の子が通っているのですね。隠し子説って、どんな内容でしたか?」


 角倉が不思議そうな表情で舞を見る。

「舞ちゃんって、仕事や研究の話しか興味がないと思っていたよ」


 舞は笑顔のまま、冷静に頭を働かせた。

「患者さんで、妄想癖があるのか、『私は隠し子です』と不幸自慢する人がいたので。参考に聞きたいな、と思いまして」


「何だ。結局、研究材料か~」と角倉が笑いながら、何かを思い出している様子だ。


「確か、『他人の飯を食って来い』と何代目かの当主が、息子に言って。大卒後、商社に就職して、アメリカへ赴任したそうだ。その娘か息子が、隠し子ではないか? そんな話だったなぁ。その後の噂は、知らないけどね」


 角倉が歩きながら、指を順番に折って考えている。

「俺が中学生の時だったと思うから。ザっと計算すると、隠し子説が本当なら、二十五~六歳になっているだろうね。まぁ、どうでもいい話だけどね」


 舞は、満面の笑みで角倉を見た。

「噂話って、面白いですよね。名家に噂は付き物ですし」


 角倉と話しながら、エレベーターで、教育棟の八階まで来た。


 舞は角倉に礼を述べると、優子の研究室へと向かった。何故か角倉が話した内容が、事実のように思えた。佐伯家の隠し子説が本当なら? 佐伯桐花も二十六歳。舞は、また一つ、ヒントが増えたと感じた。

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