第一章 09 揺れる視界の向こう
舞と小絵、角倉は、そのまま会議室に残った。舞は元の席に座り、ミネラル・ウォーターを、一気に飲み干した。角倉と小絵も空いた席に座る。小絵が舞の様子を見て、言った。
「いきなり、話を振られてビックリしたでしょう」
舞は、ペットボトルの蓋を締めながらニッコリする。
「結構、楽しんでいましたよ。この程度でビビっていたら、医学博士にはなれないだろう、と思いましたしね」
角倉が感心して、楽しそうに首を何度も縦に動かす。
「度胸あるよね。辛嶋に反論されたのに」
舞は、優子のカンファレンス時の様子を思い返した。
「新薬が厚労省の許可を取ったという話、いつわかったのですか?」
「俺もさっきの発表で知ったから、今朝か昨日だと思うよ」
小絵が、舞と角倉の顔を交互に見ている。
「優子先生も、事前に知らされていなかったのでしょうか?」
「普通は、教授陣には先に知らされるけどなぁ。優子先生は治験に協力してないから、さっき初めて知ったかもね」と角倉が、首を傾げながら言った。
舞は合点が行った。平静を装っていたが、優子は動揺したのか? 舞がそう考えていると、入口に人影があった。薬剤師の北島楓だ。バツの悪そうな顔で「KYでしたか?」と言いながら、楓がおずおずと入って来た。
舞と角倉、小絵が一斉に楓を見る。角倉がにこやかに口を開く。
「構わないよ。三人とも今日は五時上がりだし、ただの雑談だ」
右手で眼鏡の位置を直しながら、楓が三人に近付いてくる。眼鏡を取り、髪を下ろすと、かなりの美人だろう。やや神経質そうだが、典型的な瓜実顔だ。
「お話が聴こえてしまったのですが。新薬の割り振り、私も担当者の一人だったのです」
角倉が心配そうに、「口外しても、いいの?」と、楓の顔を見ている。
楓が口角を上げる。
「内密の指示では、ありませんでした。OBの心療内科クリニックへの手配書にも、薬剤師名に私の名前が入っていましたし」
「もしかして、俺たちに悪いとでも、思っているのかな?」と角倉が言う。
楓が、舞と小絵の顔を伺っている。舞は、楓に微笑んで見せた。楓が安心したような表情で、続ける。
「仕事なので、割り切っていました。正直なところ、既存の抗鬱薬と同じで、根本治療には、ならないだろうな、と思っています」
舞は、何度か小さく首を縦に振り、楓に話し掛ける。
「本当は漢方や栄養療法に、ご興味があるのですか?」
楓が角倉の顔をチラリと見て、静かに笑みをこぼす。
「漢方薬も一部は、保険適用です。いずれ、角倉先生と一緒に、東洋医学の研究ができればと思っています。特に精神医療は、薬物療法で心身共にボロボロになる患者が多すぎて。居た堪れないのです」
哀し気に、楓が眼を伏せる。ゆっくりと視線を上に戻す表情も、絵になっていた。
「漢方や栄養療法を推進するのにも、現状の薬物療法に詳しくないといけません。だから、薬学博士になって、錦城派の医師や薬剤師らと、対等に渡り合えるようになりたいのです」
舞が思った通り、楓には相通じるものがあったようだ。
「栄養療法を、好意的に見てくれていたのですね!」
楓が涼やかな笑みを浮かべる。角倉が何かを思い出したように、膝を叩いて言った。
「伝統的な中医学ではね、医者は四種類あったんだ。低い順に、外科医・獣医・内科医、最高峰は『食医』だ。今で言う、管理栄養士みたいなものだ」
小絵が、嬉しそうに頷いている。
「そういえば、優子先生が、アメリカでの管理栄養士の立場は、医師とほぼ同等だと仰っていたわね。その証拠に、欧米の一流大学には、たいてい栄養学部がありますからね」
日本では、管理栄養士の大半が女性だ。管理栄養士養成施設が、女子大の家政学部にあることが多いためだ。
男性が管理栄養士を目指すには、一部の公立大学か農業大学、福祉系の大学、四年生の栄養専門学校に行くことになる。そのため、かなりの少数派だ。
芦屋医大の管理栄養士は、全て女性であった。
栄養学の専門知識は、医学部にも必要だ。栄養学博士の肩書もある優子は、理事側と直接交渉している事柄が多い。
精神医療に栄養療法を入れることは、優子にとっては、手始めに過ぎない。芦屋医大の医学部と薬学部の必修科目に、栄養学を入れること。栄養学部を新設する案も入っている。
仮に錦城が、次期学長になったとする。だが、理事側のトップダウンがあれば、優子の計画は通るかもしれない。
精神疾患の栄養療法は、院内では不評だ。だが、この三年で、かつて薬の副作用で苦しんだ患者やその家族からは、感謝されている。良い評判は、良い連鎖も生んだ。遠方の他府県から、優子や角倉の外来診療を受けに来る患者も増えていた。優子の実績は、確実に上がっていた。
舞は他の三人の会話を聴きながら、優子の計画を反芻していた。
楓を観察してみた。中立の立場を装っている。優子の口から、まだ楓の話は聴いたことがない。優子の意見が絶対と言う訳ではない。だが、楓と腹を割って話す機会は、時期尚早と感じた。
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