第一章 08 不可解な行動

 優子がノートPCを持って、立ち上がった。一瞬、左手で額を押さえる。気に留めるほどの仕草ではない。教卓に立つと、ノートPCを見下ろし、優子の眼が三白眼になる。ノートPCの光で、優子の小さな顔が青白く浮き上がった。冷酷にも見えるこの姿は、誰が見ても美しい。優子が「美魔女」と呼ばれる所以だ。優子が話し始める。


「私が指導しているグループでは、角倉先生を中心として治療薬を極力控え、漢方薬や食事療法を取り入れています」と話しながら、優子が舞と角倉の顔をチラリと見る。


「食事療法は、三年前から管理栄養士の宇田川さんにお願いし、パン食や麺類などの小麦粉類を控え、調味料も砂糖の使用を禁止しました。玄米は調理に時間が掛かるため、白米に雑穀を混ぜています」


 正面のプロジェクターには、舞が作った資料が映っている。和食中心の一汁三菜だ。


 優子の視線が錦城に移る。


「精神疾患のほとんどの患者が、低血糖症です。欧米の精神科医の間では、ほぼ常識となっています。ですが、日本の精神科医の間ではまだ半信半疑の人が多いようです」


 錦城が、聞こえよがしに「フン」と鼻を鳴らす。


 優子は冷やかに口角を上げ、先を続ける。


「臨床検査技師のチームにお願いして、仁川グループが受け持つ入院患者さんに対して、遅延型フード・アレルギーの血液検査を行っています。食源性アレルギーのために、神経回路に支障を来たし、何らかの精神疾患に至っているケースを探るためです」


 舞がそっと、会議室の後部に視線を向けると、真剣に優子の話をタイプする研修医や院生の姿が見られる。一方の辛嶋が指導する錦城派の医師らは腕を組み、馬鹿にした視線を優子に送っている。


「この血液検査の結果、予想通り、小麦グルテンやサトウキビ、乳製品全般に反応が出る患者が続出しました。加えて、糖負荷試験も行っています。一般的な二時間ではなく、五時間です」


 優子が一呼吸を置いて、室内を見回すと、錦城派の医師たちが小声でザワつき始めた。錦城が口を開く。


「大学病院は研究機関でもあるので、優子先生の研究を止めろとは言いません。だけど、うちは精神科の研究機関ですからね~。糖負荷試験とか、関係のないことに研究費を使うのは、どうなのでしょうね?」


 表情を変えずに、優子が静かに反論する。


「アメリカの統計では、低血糖症が精神疾患を引き起こす事実がデータとして上がっています。低血糖症は、五時間以上の糖負荷試験を行わないと、血糖値曲線が測れないのです」


 優子は統計データをプロジェクターに映しながら、冷やかな視線を、錦城に注ぐ。牝の豹を思わせる迫力だ。


「多くの患者さんの原因食材に挙がっている小麦粉や砂糖は、血糖値を急激に上げます。急激に上がった血糖値は、下がるスピードも速く、低血糖状態になります。この時にホルモンや神経が乱れ、イライラが募ります。さらに血糖値を上げようと、甘い物や小麦製品を食べる行為に走り、甘味依存症やジャンク・フード依存症に陥ります」


 プロジェクターに、五時間の糖負荷試験結果が映った。血糖値曲線と呼ばれるものだ。


 舞は優子の指示で、臨床検査技師から患者たちの糖負荷試験の結果を受け取った。平均値を割り出した資料が今、プロジェクターに映っている。再び優子が、額を左手で押さえた。が、すぐに手を下ろす。


「ここからは、資料を作成した宇田川さんが説明します」


 事前に告げられていなかった。舞は、一瞬、躊躇した。だが、舞は焦りを見せずに口を開いた。室内の出席者が一斉に舞の顔を見る。


「自席から失礼します。画面を共有します」


 舞は素早くノートPCを操作し、ハングアウト機能に切り替える。正面の壁時計は、四時五十分を指している。残り十分だ。


「今、映っている血糖値曲線は、入院時のものです。糖負荷試験は検査前に濃度の濃い砂糖水を飲んでもらいます。ほとんどの患者さんが、三十分以内に血糖値が百四十まで急上昇しています。二時間ほど百二十前後の高血糖状態が続き、気分は躁状態です」


 舞は一呼吸を置いて、教卓の前の席に腰を下ろした優子を見た。

 優子は前方のプロジェクターを見詰めていた。


「計測し始めて三時間目から、急激に血糖値が下がり、三時間半後からは、ずっと血糖値が六十から四十台を低迷しています。血糖値の正常値は七十から百十の高下ですが、精神疾患患者の平均値は、かなりの乱高下だとわかります。これは一般的な二時間の糖負荷試験では発見されない事実です」


 錦城が舞の座る三列目を見るために、振り返る。横目の冷やかな視線だ。舞は睨み付けないよう注意しながら、錦城の顔を凝視した。


「次は、食事療法と治療薬を漢方薬に変更し、三か月後に計測された血糖曲線です」


 舞はプロジェクターに映すデータを差し替えた。

「ご覧の通り、血糖値が七十から百十の間で推移しています。回診に同行すると、患者さんの様子が落ち着いて、錯乱や虚言癖がなくなっている事実も観察できました」


 舞が言い終わらないうちに、辛嶋が口を挟む。

「入院食や漢方薬で、心の病が治る訳がないだろう!」


 舞は反論されて、闘志が湧いてきた。

「感情的になる神経も、毎日の食事から得た栄養素が原料です。心の問題の前に、人間も生物です。マウスを使った食事調査の実験で、砂糖水を飲ませたマウスが研究者の手に噛み付いた例もあります」


 舞の迫力に、室内が静まる。

「血糖値が乱高下すると、アドレナリンが出っ放しになり、攻撃性が高まります。薬を使わなくても、原因食材の摂取を辞めれば、収まるケースがあるのです」


 遠目に、優子が大きく頷いている姿が視野に入る。舞は、そのまま続けた。


「新薬の開発も大切です。ですが、欧米で研究が進んでいる、精神疾患の栄養療法にも目を向けるべきではないでしょうか」


 舞の発言を遮るように、錦城が話し出す。

「研究費の無駄遣いだと、上から睨まれない程度に、進めてください。アメリカのほうが研究しやすかったでしょうにねぇ、優子先生」


 辛嶋が勝ち誇った態度で、舞に視線を向ける。

「そろそろ終了時間になります。机を元の位置に、お願いします」


 質問時間を設ける隙も与えない。辛嶋の辛辣さが、垣間見えた。


 優子は途中で疲れが出たのだろうか? カンファレンス解散後、舞に声を掛けることなく、足早に去って行った。


 角倉と小絵が、舞を労ってくれた。だが、大半の者たちは、舞を冷やかに一瞥してから、会議室を出て行った。

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