第一章 07 新薬「ボルテキセシン」の発表

 正面の壁時計が四時を指すと、辛嶋が立ち上がった。全体を見渡してから、意気揚々と口を開く。芦屋医大と井田製薬が共同開発した新薬が、厚生労働省から正式に認可されたらしい。詳細は錦城の口から説明された。


 錦城が立ち上がって、右横に設置された教卓の前まで歩く。辛嶋は素早く、前方エリアを消灯する。正面の白壁に、プロジェクターの光が映し出された。


 優子は、左側の最前列の席に移った。


 錦城がノートPCを操作すると、白壁に井田製薬の本社ビルが映った。井田製薬は、創業二百五十年を迎える日本屈指の製薬会社の一つだ。江戸時代から「薬のまち」として栄えた大阪・道修町に本社を構える。そこは、創業の地でもあった。


 阪急電鉄の神戸線と宝塚線の中間に位置する神崎川(かんざきがわ)工場で、主だった薬品が製造されている。電車から見える巨大工場は、そのまま権力を誇示しているようだ。


 錦城の説明によると、新薬は二〇一三年にアメリカで医薬品として承認された化合物『ボルテキセチン』が主成分となる。ボルテキセチンは、セロトニン値を上昇させるため、大鬱性障害の治療に効果的だ。既に世界八十三ヶ国で承認されており、様々な薬品名で販売されている。日本でボルテキセチンを主体とした抗鬱薬は、井田製薬が初となる。


 厚生労働省が認可する条件として、治験がある。井田製薬は、新薬の名称を仮称『モーニスコプラ』とした。スウェーデン語で「躁」と「リラックス」の単語を捩ったものだ。


 新薬はまず、効果効能を動物実験などで確認する。確証すると患者に投薬して、臨床試験が行われる。こうした工程を治験という。『モーニスコプラ』の治験に、芦屋医大が協力した。精神科病棟の入院患者をはじめ、通院患者や、芦屋医大出身の心療内科クリニックにも協力を求め、五百二例のデータが集まった。


 井田製薬は、二〇一九年二月に厚生労働省に製造販売承認申請を行った。一年半を要したが、ようやく認可された。プロジェクターに映った資料によると、ボルテキセチンの副作用は「便秘」と「吐き気」になっていた。舞は、ノートPCからネット検索する。近年、開発された化合物のため、ヒット数は、まだ少ない。


 だが、ボルテキセチンの副作用は、これまでに見てきた薬物の副作用と同様のものが多かった。二十五歳以下の自殺願望・出血・セロトニン症候群・躁病などだ。舞が、特に気になったのが、「減薬すると離脱症候群に陥る」だ。舞は結局、新薬が開発されても、精神疾患は改善されないと悟った。得意げに話す錦城に、憤りを感じた。


 鬱状態から抜け出るには、セロトニン値が上がると一時的に楽になるだろう。だが、その状態を通り過ぎると、セロトニン値の上昇が続き、今度は躁状態になる。躁状態の時に、ヒトは行動を起こす。セロトニンの主な作用は、十四。抗鬱の他に「衝動攻撃行動」も、あったはずだ。舞は丸暗記していた生理学の教科書の内容を反芻した。


 舞の席から錦城が立つ教卓を見ると、優子の後ろ姿が、視野に入る。会議室の前方が消灯されているため、優子の白衣姿が薄暗闇に浮かんで見える。


 舞の脳裏に今朝、白い女を尾行した光景が蘇った。


――白い女が西宮か芦屋市内の心療内科に通っていたとしたら?


 阪神間には、芦屋医大出身の医師が開業する心療内科クリニックが多い。白い女も、治験対象に入っていたかもしれない。若い女だった。恐らく二十五歳以下だろう。舞は、明日の捜査本部出頭を待ち遠しく感じた。


 長く感じられた錦城の説明が終わる。正面の壁時計は四時四十分。残り二十分で、優子が栄養療法の進捗を説明する。

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