第一章 10 テレビ報道

 舞と小絵は会議室を出ると、精神科病棟の入院施設に寄った。四階は、女性の大部屋があるエリアだ。


 ナース・ステーションの前を通ると、夕食を終えた患者達が、並んでいる。看護師が、患者の家族から預かった菓子類を渡していた。精神科病棟の入院患者は、十七時半が夕食タイムだ。病棟の規則で、十五時と十八時は、おやつを食べていいルールになっていた。


 舞と小絵は、ナース・ステーション内に入っていく。精神科病棟の看護師は、暴れる患者を押えるため、男性の看護師が半数を占める。女性の看護師も、体育会出身の体力がある者が配属されていた。


 舞は、優子が信頼を置いている桑本咲くわもとさきの姿を探した。学生時代は少林寺拳法部に所属していた。四十歳になる長身のスレンダー美女だ。長い髪をアップにし、CAを思わせる華やかな雰囲気がある。咲が、舞と小絵の姿を見つけて、奥の席から手を振っている。舞と小絵は、一礼して咲に近付く。


「やはり、お菓子は禁止にできないのですか?」


 舞が小声で訊ねると、咲が優美に微笑む。

「優子先生や角倉先生の患者さんのお菓子は、預かっていませんよ。並んでいるのは、錦城派の先生方の患者ですよ」


 舞と小絵は、仕方がないという表情で眼を合わす。


「大学病院と売店の契約もありますから、お菓子を禁止にできないのが現状ですね」


 小絵が、納得顔で頷く。咲がさらに続ける。


「患者さんの家族から、お小遣いを預かっていますでしょう。大学病院の売店で、お買い物をしてくれると、大学側も利益になりますからね」


「特に精神科病棟の患者は、判断力がありませんよね。患者の言い成りで、お菓子の注文を受けていたら、食べ放題ですよね?」と舞は、小声で質問した。


「その辺が、お商売なのでしょうね~」と咲が両掌を、胸の前で上げ、肩を竦める。


「私個人としては、優子先生が大学側に交渉してくれるといいな、と期待しているのです」


 患者から預かった菓子類は、患者の家族が用意した袋に纏められ、鍵の掛かる棚に保管される。開け放された棚を見て、舞がうんざりした時だった。


 菓子を食べて上機嫌になった患者が、テレビのあるオープン・スペースで騒ぎ出した。


 テレビ画面に向かって、「殺してやる!」「死んでやる!」と喚く声が轟いた。舞は、食後高血糖の影響ではないかと悟った。


 咲の表情が鋭敏になる。「ちょっと失礼!」と、舞と小絵の間を素早く通り抜ける。大股で音も立てずに、走って行った。


 壁時計は六時を少し回ったところだ。患者たちは、ちょうど夕食を終えて血糖値が上がっている頃だ。そこへ甘い菓子類を与えると、さらに血糖値が上がり、食後高血糖を起す。アドレナリンやドーパミンなどの興奮神経が、フル稼働したのではないか?


 舞は、アメリカの犯罪行動のエビデンスを思い返した。犯罪者の多くが、実行前にコーラなどの甘味飲料を飲んでいた。イライラが最高潮に達し、殺人に至る事例もある。優子の講義で何度か聴いた「食行動と殺意」だ。


 舞と小絵も、廊下に出た。オープン・スペースで騒いでいた患者は、咲と男性看護師の二人掛かりで腕を摑まれている。やや肥満気味の女性患者は、必死に抵抗して、指先をテレビに向けていた。


 舞がテレビに顔を向けると、夙川の葉桜並木が映っていた。夕方のニュースで、今朝の事件が報道されたのだ。画面はすぐに切り替わり、別のニュースを読み上げる男性アナウンサーの声が響いた。どこまで報道されたのだろうか?


 舞は、すぐにでもノートPCで検索したい衝動に駆られた。


 舞と小絵が、オープン・スペースから立ち去ろうとした時だった。咲が戻ってきて、二人を呼び止めた。


「夙川沿いで、死体が発見されたようですね。さっきの患者は、ニュースの報道の言葉に反応して、暴れたみたいです」


 精神科病棟で患者が暴れるのは、日常茶飯事だ。咲は慣れた様子で、淡々と話す。

「テレビ番組が影響するから、気を付けているのですが。ニュースまでは、予測できませんからね」


「何の事件だったのですか?」舞には見当が付いていたが、訊ねずにはいられなかった。


 咲は、興味を示していない表情で、首を傾げている。


「ニュースを観た人によると、身元不明の男性が刺されたそうですよ。そう言えば、舞さん、夙川方面に住んでいたね? 犯人がウロついているかもしれないから、気を付けてね」


 舞は、微笑んで見せた。地方版の十分程度の短いニュース報道だ。事件の要約しか報道されていないようだ。舞には犯人が分っている。だが、今朝の殺害現場の目撃情報は、咲や小絵に口外できない。


 今から着替えて帰宅すれば、国営放送の夜七時のニュースに間に合う。地方版のニュースが流れるのは、最後の五分ほどだ。舞は、咲に一礼すると、小絵と共に三階の渡り廊下へと急いだ。


 渡り廊下の窓から外を見る。疲れた表情の荒垣が、視野に入った。両手を白衣のポケットに突っ込み、気怠そうに歩いている。職員用食堂の方向だ。


 後で覗いてみよう、と考えが過ったが、荒垣は何も答えてはくれないだろう。自席に戻ると、舞は、ドッと疲れが出て来た。長い一日だった。脚も重く感じられた。


 舞は、いつもマウンテン・バイクで通勤している。だが、今日は覆面パトカーで送ってもらった。歩きたい気分だったが、タクシーを拾った。


 タクシーの後部座席に身を沈めると、舞はスマホを検索する。『夙川で身元不明の男性の刺殺死体が発見』とある。だが、状況説明だけで、犯人の情報は触れられていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る