第三章 09 舞の実家
西宮警察署を出ると、喜多川からのアドバイスで、院内用スマホの電源を切り、実家の方角に向けて、歩き始めた。西宮警察署からは、徒歩十分弱だ。西宮警察署を出てから、東に五分ほど歩くと、幹線道路に出る。角を曲がり、北の方角に歩くと、左側に舞の実家がある。実家には、予め、帰りに寄る旨、連絡してあった。
プライベートのスマホを見ると、姉の凜からのメッセージが表示されていた。舞の姉、凜は、結婚後、東京に住んでいる。毎月のように、大阪出張の夫に便乗して、実家に泊まっている。舞は、「後五分で到着します」と返信すると、空を見上げた。雨は止んでいた。街灯を通して、動きの速い雲が空一面に広がっている様子が確認できた。
実家の前まで行くと、小型犬を抱いて、凜が立っていた。実家の飼い犬である、牡のミニチュア・ダックスフンドだ。今年で十歳になる。舞の顔を見ると、凜の腕の中で、嬉しそうに尾っぽを激しく動かしている。
凜が「遅い!」と、口を尖らせながら、犬を舞の腕に移してくる。舞は、柔らかい犬の毛並みに癒された。犬をギュッと抱きしめると、凜に笑顔を向けた。
建物の一階は、まだ電気が点いていた。
「パパは、まだ仕事中なの?」と舞が尋ねると、凜が首を傾げる。
「甲陽園のほうに、また新しい高級マンションが建つから、基礎工事を請け負うそうよ」
「甲陽園なら、甲山に近いから、低層のマンションでしょうね」
「どこかのお屋敷の跡地で、山の斜面を利用して建てるから、設計が難しいみたいよ」
甲陽園は、阪急甲陽園線の終着駅の名前だ。神山町の最寄り駅にもなる。
「そのお屋敷って、もう取り壊されてるの? どのお屋敷だろう?」
凜が訝し気に、舞の顔を見る。
「舞ちゃんが建築に興味を示すとは、以外だね?」
舞は咄嗟に、言い訳を考える。
「あの辺り、最近、物騒だと、患者さんが噂してたから……」
「そういえば、夙川で殺人事件があったんでしょう? 犯人って捕まったの?」
舞は、内心、「墓穴を掘った」と悔やんだ。
「ローカル・ニュースだから、犯人が捕まっても、いちいち報道しないのかもねぇ」
凜が、楽し気な表情で、舞の顔を覗き込む。
「芦屋医大で解剖とか、犯人の精神鑑定とか、やってたりするの? ねぇ、教えてよ」
昔から凜は、噂好きそうに見せかけて、人に余計な事実を話させるのが上手い。
「さぁ、セクションが違うからねぇ」と舞は、返す言葉を選んだ。
凜が、つまらなさそうに「何か面白い話ないの?」と、ぼやきながら、三階の住居に繋がる、エレベーターの昇降ボタンに手を伸ばした。エレベーターに乗ると、腕の中の犬が、安心した表情で、舞の顔を見上げている。ドアが開くと、舞の腕から飛び降りる。猛烈な速さで、母のいる部屋へと走り去った。
舞は、台所にいる母、紗月に声を掛けると、自室に荷物を置きに行った。犬が、舞の足に纏わりながら、付いて来る。舞は、自室に入り、所持品を置くと、窓に歩み寄る。
北西に位置する窓からは、薄っすらと甲山の頂上が見えていた。雨上がりの夜なので、ハッキリとは見えない。ぼんやりと家々の電灯の連なりが、夜景として見えていた。
電気も点けずに、窓の外に見入っていた。足元では、犬が催促の声を上げていた。舞がしゃがんで、犬を抱き上げると、部屋の入口に、父の勝司が立っていた。
「電気も点けないで、何を見てるんだ?」
「パパが甲陽園方面のお仕事を請け負ったと聞いたから。その方角を見てたのよ」
勝司も先ほどの凜と同様、訝し気な表情で舞の顔を見た。
「仕事一筋のお前が、建築物に興味を示すとは、思えないなぁ」
舞は、腕の中でジタバタし出した犬を床に下ろすと、廊下に出た。
「どこかのお屋敷跡なのでしょう?」と、舞は訊ねた。
「大阪船場にあった老舗の玩具問屋が、倒産してね。その一族が手放したんだ。大手ゼネコンが買い取って、低層の高級マンションにするんだ」
舞は、佐伯一族ではない事実がわかると安堵した。
「確か、神山町の辺りは、マンションの建設は禁止されてたよね?」
「隣町の西山町だ。駅からも近くなるから、最近、低層のマンションが建ち始めてるなぁ」
西山町は、神山町の南隣だ。甲山に向かう斜面の下側に位置する。
勝司が右手で頭を撫でつけながら、思案顔になる。
「あの辺はね、地下に山陽新幹線の線路が走ってるから、厄介なんだ。一軒家なら、基礎工事も楽だけど。低層とはいえ、大型建築物になるからなぁ」
舞は、笑顔で、「パパは逆境に強いから、きっと乗り切れるよ~」と、言った。勝司が、照れくさそうに笑っている。
リビングに入ると、紗月と凜がテーブル席に着いて、テレビを見ていた。テーブルには、デパ地下で買った、和食惣菜が並んでいる。母が嬉しそうな笑顔で、舞を見る。
「今日は、凜ちゃんが来るから、西宮駅のデパートで、お惣菜をいっぱい買ってたのよ。ちょど良かったわ」
テーブル脇のワゴンの上には、《氏鉄饅頭》の紙袋もあった。舞の視線に気づき、紗月が続ける。
「舞ちゃんも、お饅頭、いくつか持って帰りなさいね」
内心、「魔の饅頭」だと思いながら、明日からの仕事に役立つと、舞は思った。
明日の午後から、錦城の胃の内容物の分析が、本格的に始まる。朝の時間帯に食べたと推測される、消化の進んだ砂糖菓子の溶液もサンプリングされてある。饅頭の成分と一致するだろう。舞が黙って、考えに耽っていると、足元で犬が小さく吠えた。
凜が、舞の様子を愉快そうに見ている。
「舞ちゃん、いつも人の話を聞かずに、考え事してるよね~」
舞は、愛想笑いを浮かべた。
「大学院の論文が大変でね。お惣菜の話で、閃いた事柄があったのよ」
「舞ちゃんの話、難しいから、敢えて質問しないでおくわね」
舞は、対面式のキッチンに視線を移す。西宮や芦屋を代表する、洋菓子店の紙袋が、いくつか確認できた。スイーツ好きの凜が、昼間に買い漁ったようだ。
勝司が席に着くと、凜が矢継ぎ早に東京での生活を捲し立てている。一方的に話しておきながら、時折り、舞に、「大人しいね」とか「何で黙ってるの?」と、話し掛けてくる。
舞が口を開きかけると、凜がまた別の話を始めた。両親は、嬉しそうな表情で相槌を打ちながら、箸を進めている。凜が一通り、話し終えると、席を立った。冷蔵庫から、ケーキの入った箱を取り出している。紗月も、紅茶を淹れに、席を立った。
紗月の空いた席に、犬が飛び乗った。舞は、勝司と二人になると、口を開いた。
「パパのお仕事って、西宮や芦屋が多いでしょう? 先日の夙川の殺人事件の噂話とか、入ってくるの?」
「芦屋医大で、被害者の解剖でもしているのか?」と、勝司が問い返す。
「阪神間が管轄だから、きっとしてるでしょうね」舞は、わざとお茶を濁して、続けた。
「精神科に勤務してるから、あの事件を怖がっている患者さんがいてねぇ。何か知ってるかなぁと思って」
勝司が、顔を顰めて、何かを思い出している様子だ。
「西山町の現地調査に行った時になぁ。町内会の代表のご婦人が、明け方に犬が吠えるって話してたよ」
舞は、前のめりで、勝司の顔を見て、続きを促した。
「うちのロビンも、朝の五時半に、散歩の催促で吠えるだろ? だから、当たり前だ、と思って聞いていたんだ」
ロビンとは、飼い犬の名前だ。
「その話って、単に犬が吠えてただけ? 警戒態勢で吠えてたとか、怯えていたとか、特徴なかったかな?」と舞が訊ねると、勝司が首を傾げた。
「ご婦人の話は長いから、適当に聞き流してたよ。そういえば、夙川の殺人事件の後、犬が大人しくなったとも、聞いた気がするなぁ。被害者は浮浪者だったみたいだね。そんな話も出てたね。まぁパパが思い出せるのは、この程度だ」
「そのご婦人、西山町の町内会の方よね?」
舞が、念を押すように確認すると、勝司が頷いた。
被疑者が神山町の住人だと仮定したら、夙川沿いに出るのに、西山町を通る。舞は、被疑者の足取りが、また一つ増えたと思えた。
舞が勝司に視線を戻すと、紗月と凜が運んできたケーキ皿を見てギョッとしていた。
「俺は要らないよ。女性は幾つになっても、デザートは別腹なんだね。紅茶だけ頂くよ」
勝司は、和菓子も含めて、甘い物をほとんど口にしない。一方の紗月と凜は、母方の祖父に似たのか、甘党だった。
「秋はやっぱり、和栗のモンブランよね。ここのモンブランは、東京では買えないのよ。舞ちゃん、食べないの?」
「晩に甘い物を食べたら、興奮神経を刺激して、寝つきが悪くの。だから、遠慮するわ」
と舞が答えると、凜がうんざり顔で、舞の顔を見る。
「また舞ちゃんの屁理屈が始まったねぇ」と、嫌味を言った。
凜の横顔を見ると、蟀谷こめかみ辺りの血管が、ピクピクと動いている。ヒステリー患者に、よく見られる現象だ。凜は、東京での生活にストレスを抱えているのかもしれない。昔からスイーツ好きで、時々、ヒステリックになるケースがあった。
舞は紅茶を飲み干すと、自分が使用した食器をキッチンのシンクに下げた。舞は、改めて、台所をグルッと見回した。ワゴンの上に置かれた《氏鉄饅頭》の紙袋が視野に入る。舞は紗月の顔を見て、「お饅頭を二つ頂いて帰るね」と、言った。
「たくさん買ったから五個ぐらい持って帰りなさいよ」
「一人だと食べ過ぎるから、二つでいいよ。じゃあ、そろそろ帰るわね」
凜が自席から振り返って、舞を見る。
「まだ九時よ。もう少し話そうよ。泊まればいいじゃない? ここからのほうが、芦屋医大に近いでしょう?」
紗月も笑顔で頷いている。勝司が、舞の表情を察したのか、足元にいた犬を見下ろす。
「舞は明日も仕事だ。自分の家に戻ったほうが、何かと都合がいいだろう。また休みの日に、ゆっくり泊まりに来ればいいよ」
凜が、何やら文句を言っている。勝司は無視して、廊下に出た。犬が勝司の後を追いかける。紗月と凜に、挨拶をすると、舞は、自室に所持品を取りに行った。
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