第三章 08 最初の事件から二週間
舞が西宮警察署の受付に向かうと、年輩の警察官が舞に笑顔を向けた。以前、訪れた時にも対応してくれた、愛想の良い初老男性だ。喜多川との面会を告げると、内線電話に手を伸ばした。前回と同様、一分も経たないうちに、喜多川が現れた。
「今日で、ちょうど、あの事件から二週間ですね」
舞に話しながら、喜多川は、旧友に会えたような、嬉しそうな笑みを見せた。室内に入ると、喜多川がモニター画面を表示させる。
「些細な事実でも、くだらないと思える考察でも、気付いた点を、何でもお話くださいね」
舞は頷くと、錦城の急逝から話し始めた。以前、喜多川のモニター画面から、被疑者の本名と、精神鑑定の担当が錦城だと知った。だが、喜多川が舞に話した訳ではない。話し方に工夫が必要だ。
「芦屋医大の精神科医局長、錦城孝則先生が今週の月曜日に急逝しました」
喜多川が哀し気な表情で舞の顔を見る。
「錦城先生は、私も面識がありました。残念でしたね」
「ここからお話する内容は、私の憶測です」
舞が言葉を切ると、喜多川が、真剣な眼差しで頷いた。舞は、先を続ける。
「浮浪者殺人事件の被疑者を、錦城先生が担当していた、と仮定します」
喜多川はモニター画面に顔を向け、黙って次の言葉を待っていた。指先を、キーボードの位置に合わせている。
「錦城先生は、被疑者の行動は、薬の副作用や、何らかの精神疾患による突飛な行為だとは、考えていませんでした。その考察が、正しい診断ではなく、新薬の副作用の症例を隠すためだと考えたら、辻褄が合うように思うのです」
喜多川は、一度だけ、大きく首肯するとキーボードを叩いた。
「新薬の主成分は、日本では井田製薬が初となる化学物質ボルテキセチンです。新しい成分ですが、違法薬物ではありません。被疑者を拘束した当日の尿か血液サンプルを、科学捜査研究所に回せば、きっと、ボルテキセチンが検出できると思います」
喜多川が頭の位置を変えず、視線だけ動かして、舞の顔を見た。そして、舞に質問する。
「確かに被疑者から、違法薬物の検出はありませんでしたね。錦城先生が新薬のプレス・リリースを進めるために、事実を隠し、時間稼ぎをした、と考えているのですね?」
舞は、「話が早い!」と思いながら、何度も首肯した。
「証拠になる、とは言い切れませんが。神山町で、事件前に広まった噂話があります」
舞は、事件前に、神山町のお屋敷街で、明け方に飼い犬が一斉に吠えていた事実。農家の男性が、明け方に幽霊と思しき白い衣装を着た女性を見た話などを説明した。
「飼い犬が一斉に吠えていた件ですが、幽霊だと思われていた女性が、もし被疑者なら。新薬に含まれるボルテキセチンの副作用で、カテコラミンが高濃度だったと推測できます」
舞は言葉を切ると、オーストラリアのストック博士の論証を披露した。喜多川のキーボードを操作するスピードが速まった。その後、喜多川は手を止め、思案顔で舞の眼を見た。
「警察犬の訓練士が、その論文と似たような話をしてましたね。警察犬は、麻薬中毒者と殺人犯、どちらにも同じような警戒態勢を見せるのです。両者とも、ある意味では脳内の分泌物が一緒ですからね。犬は嗅覚が鋭いから、興奮物質であるカテコラミンに反応しているのかもしれませんね」
喜多川が、「余談ですけど」と付け加えると、話の続きを促した。
喜多川の余談は、飼い犬の吠声を真剣に受け止めている証拠だ。舞の手前、知らないフリをしているが、神山町管轄の警察官からの報告は、把握しているだろう。
舞は、十秒ほど目を閉じて、頭の中を整理すると、再び話し始めた。
「錦城先生の立場なら、被疑者からボルテキセチンが検出されないよう、操作できたと思います。そうすると、被疑者は有罪となってしまいます」
喜多川が、相槌を打ちながらタイプする。
「もし、被疑者の親族か恋人が、錦城先生の隠蔽工作を知ったなら? 殺意を覚えますよね? 錦城先生が、このタイミングで急逝するのは、不自然な気がするのです」
と舞が言うと、喜多川の手がピタッと止まった。喜多川は、椅子の背凭れに身体を委ねると、腕を組んで、何かを考えている様子だった。そして、言った。
「今の時点では、宇田川さんの憶測ですから、警察は動けません。錦城先生の他殺の可能性が濃いと見られる証拠は、探せますか?」
舞は、食い入るように喜多川の眼を見詰めて口を開いた。
「法医学教室から、錦城先生の胃の内容物について、栄養分析を依頼されています。脳梗塞の原因の一つと考えられる内容物は、ありました。亡くなった当日の朝に、砂糖菓子を大量に食べていた形跡があります」
喜多川が腕を組んだまま、指先を順番に動かし、顔を顰めた。
「お菓子ですかぁ~。無理やり食べさせられたなら、話は違ってくるのですが……。他に、ないですか?」
「まだ全ての解剖が終わった訳ではありませんけど。現在、分かっている解剖結果によると、錦城先生はⅡ型糖尿病の可能性が高かったのです。膵臓のインスリン分泌も正常ではなく、インスリン注射を打たないといけないレベルでした」
喜多川の表情が、やや明るくなる。舞は、さらに続けた。
「しかし、錦城先生の健診結果を調べると、血糖値はギリギリ正常値範囲内だったのです」
「もし、健診結果が偽造されていて、その証拠が見つかれば、こちらも動けますね」
舞は、目を大きく見開いて、喜多川の顔を見た。舞の予想通り、喜多川は舞の考察を肯定している。
「錦城先生の本当の健診結果を知っている者が、敢えて好物のお饅頭やチョコレートを差し入れていたら、殺人になるでしょうか?」と舞は、訊ねる。
喜多川が、両腕に力を込めて、腕を組み直している。
「一般論ですが。インスリン注射が必要なⅡ型糖尿病患者から、注射を取り上げたら殺人になります。その上で、血糖値が上がりやすい食品を与えても、罪になるでしょうね。宇田川さんは、この例に近いと、お考えなのですね?」
「糖尿病患者は、甘い物を大量に食べる傾向があります。糖質は体内の水分を取り込んで、脂肪組織に蓄積します。そのため、過体重や肥満になりやすいのです」
喜多川が、再び上体を起こし、キーボードを叩く。舞は、説明を続けた。
「錦城先生の脳梗塞は、脳のCTスキャン画像より、《アテローム血栓性脳梗塞》と考えられています。血管が非常に細く、血管内には、プラークと呼ばれる脂肪の塊が多数ありました。心臓の血管のプラークが、脳の血管に移行して、そのまま詰まり、脳梗塞を起こしています」
舞が言葉を切ると、喜多川が勢いよく首を動かし、舞を見詰めた。嬉しそうな表情に、見えなくもない。さらに、舞は、説明を続ける。
「もう一つ。錦城先生は、日頃から声を荒げたり、急に機嫌が悪くなったり、周りの人から短気だと思われていました。癇癪かんしゃくを起しやすい状態、とも言えます。これは、癲癇てんかんの発作の作用機序と似ていまして、いつも興奮神経が高まりやすい状態だったと考えられるのです」
喜多川が手を止めて、口を開く。
「殺傷事件の言い訳に、『口論でカッとなった』事例が多いですね。カッとなって人を刺してしまうか。頭に血が上って、脳梗塞を起こし、自滅するか。錦城先生は後者だと?」
舞は、得意そうに頷いた。
「ヒトがカッとなるのは、体内が低血糖状態の時だと考えられています。甘い物を大量に食べると、血糖値が急上昇した後、今度は、急激に血糖値が下がり、極度の低血糖状態になるのです。よく声を荒げる人は、スイーツ好きなケースが多いのですよ」
喜多川が、何度も頷く。
「先日、アメリカの犯罪者の食行動を教えて頂いたので、私も調べてみました。日本での事例は、記録されていませんが、一理あるでしょうね。錦城先生の健康状態や、声を荒げやすい性質を知っている者が、犯人だと思うのですよね? 心当たりは、ありますか?」
舞は、やや戸惑いがちな視線で、喜多川を見詰めて、言った。
「被疑者の親類縁者か恋人だと思うのです。神山町には、酒造会社一族のお屋敷があります。阪神間には多い、有り触れた苗字ですが」
喜多川は、その苗字を察したのか、舞からサッと視線を逸らせた。
「きっと宇田川さんには、その苗字が特定できているのでしょう。芦屋医大にその苗字の先生とか、職員は、いらっしゃいますか?」
「私の周りには、いないのです。その一族は、神山町に、中高一貫の甲神学園を創設しました。出身者の方によると、二十数年前、創設者の直系に、隠し子説の噂があったそうです。その説が本当だと仮定したら、今頃、二十五~六歳になっています。隠し子なら、本当の親は苗字が違うでしょうね」
喜多川は、噂話を馬鹿にしなかった。「なるほどね」と頷きながら、タイプしている。
「錦城先生の側近や、接触があったと思われる院内関係者のDNA鑑定ができればいいのですが~」と喜多川は、わざと語尾を緩めた。
ゆっくりと頭を動かし、舞を見る。意味深な笑みを浮かべている。
「繰り返すようですが、今の状況だと、警察は動けません。差し支えなければ、錦城先生のご遺体を解剖した方を、教えて頂けますか?」
喜多川の表情から、決意が伺えた。
「表向きは、法医学教室の室長、藤原先生です」と、舞は答えた。
「実際は?」と間髪を入れずに、喜多川が問い返す。
舞は一瞬、喜多川から目を逸らしたが、すぐに視線を戻した。
「荒垣壮太先生です」
喜多川が上体を反らしながら、大きく頷いた。
「何度か、事件性のあるご遺体をお願いしたんで、面識があります」
喜多川は、それ以上は語ろうとしなかった。舞は、喜多川が伝えたい趣旨を察した。
錦城の他殺を疑っている荒垣なら、すでにDNA鑑定を行っている可能性もある。すんなりと、警察に鑑定結果を差し出すだろうか? 荒垣の真意は、まだ舞にとっては不明瞭だった。喜多川は、何かを期待しているのか、どことなく華やいだ表情を見せた。
「私がお伝えしたかった内容は以上です。最後に、もう一つだけ。勘違いかもしれない、些細な出来事です」
と舞が言うと、喜多川が真顔に戻った。再び、指をキーボードの位置に合わせている。
「二度ほど、タクシーがスーッと通り過ぎましてね。『誰かに見られている』ような感覚に陥ったんです」
喜多川が真剣な表情で頷き、「場所を覚えていますか?」と言う。
「一度目は、浮浪者殺人事件の翌日です。通勤前の早朝、マウンテン・バイクで夙川さくら道を走っていました。時間は七時前後でした。二度目は、マウンテン・バイクで、神山町を散策した日です。先週の土曜日、夕方四時ごろでした。伯母夫婦が経営するレストランに寄った帰り道でした。夫婦岩の車寄せで、マウンテン・バイクを停めていた時です」
喜多川が、モニターに地図を映しながら、言った。
「二度目の位置は、そのまま坂道を下ると、夙川さくら道に繋がりますね。この辺りに住んでいる方をご存知ですか?」
舞は床を見詰めて、思い返した。
「伯母夫婦以外は、思い当たりませんね」
「逆方向は、どうですか? 北を向いて、夫婦岩を見ると、左右に道が分岐しています。右に行けば、仁川や宝塚方面に。左に行けば西宮の番町街や、芦屋の六麓荘に繋がります。この辺りは、関西屈指の富裕層街になりますから。運賃を気にせず、タクシーを乗り回すお金持ちも多いでしょうね。お医者様とか……」
舞は、さらに首を傾げ、「思い当たりませんね。黒いタクシーでした」と言った。
喜多川が再び舞の顔を覗き込み、「黒いタクシーで、間違いないですね?」と問う。口調がやや、キツく感じられた。
「一度目は、意識していなかったので、定かではありません。二度目は、間違いなく黒いタクシーでした。まぁ二回とも、乗車していた人物が同一だとは限りませんけど」
と舞が答えると、喜多川は、何か思う節があるのか、思案顔で床を見詰めていた。
「今日、ここに来られた事実を知っている人は、いますか?」
舞は、一瞬、戸惑ったが、荒垣の名を口にした。
「荒垣先生はマイカー通勤ですね。タクシーには、ここ数年、乗っていないとも、お聞きしましたけど……」と舞は、付け加えた。
「この方は除外していいでしょう。宇田川さんの行動や発言を、盗み聞きしやすい立場の人でしょうね」と、喜多川が言った。
「私の傍にいる人物ですか?」と舞は、思わず訊き返した。
だが、喜多川は、舞の問いには答えず、意味深に微笑んだ。声を落として、舞に囁いた。
「今日、お聞きした内容は、公には調査できません。上に報告しても、時間をくれないでしょう。個人的に調べてみますわ。それから、錦城先生の解剖は、全てが終わった訳ではないのですね? 分かり次第、教えて頂けますか? 他の内容の動きも。次回からは外でお会いしましょう」
喜多川の眼は、決意を新たに、輝いて見えた。舞も声を落として、喜多川に囁いた。
「錦城先生の他殺説と、浮浪者殺人事件は、きっと繋がっていると思います」
と舞が言うと、喜多川は、静かに笑みを浮かべて頷いた。舞は、同世代の喜多川に、さらに親近感を覚えた。
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