第三章 07 美食のツケ
坂下が退室すると、舞は、荒垣の向かい側の席に移動した。
荒垣がプリンを試食している。舞は内心、荒垣にスイーツは似合わないと思った。
「たまに食べると、プリンも旨いなぁ。プリンも錦城先生の好物の一つだったんだね。でも、大食漢のわりに、超肥満体でもなかったよな。太腿の筋肉は、引き締まっていたし」
舞は、精神科の合同カンファレス時の錦城を思い返しながら、言った。
「そういえば、精神科病棟内の移動は、階段でしたね。歩くのが速い、とも思いました」
荒垣が窓の外を見ながら、何かを思い返しているようだった。
「錦城先生の自宅は、東灘の岡本町だったね。阪急の芦屋川の隣駅だ。朝は一駅分、歩いて出勤って、角倉が言ってたな。帰りは、大学側が用意したハイヤーだったけど」
「運動不足を、気にされていたのでしょうね」
「岡本と芦屋川の区間なら、徒歩で三~四十分だ。坂道も多いから、まぁ、運動にはなるよね。でも、せっかく運動してたのに、食生活が最悪だと、死期を早めるんだね」
荒垣は、実験用の間仕切りのあるプラスチック・ケースに、料理のサンプルを入れていた。舞の顔をチラリと見る。
「ちゃんと、坂下さんの許可を取ったよ。サンプルがあったほうが、分析しやすいだろう?」
舞は内心、荒垣の手際の良さに驚いた。フォークやナイフの使い方も、丁寧で優美だ。メスを使う要領なのか、動きに無駄がない。
「食事中に悪いのですが」と舞は、前置きをすると、続けた。
「膵臓の分析は済みましたか? やはりインスリンは出にくい状態でしたか?」
荒垣は、満足した様子で、プラスチック・ケースを眺めている。
「構わないよ。俺は慣れているから。君は、ちゃんと食べたかな? サラダとご飯しか食べていないみたいだけど」
舞の様子には、関心を払っていないと思っていた。だが、荒垣は、視界の片隅で、舞の様子を観察していたようだ。
「ステーキとプリンは、これから味わってみますよ」
舞は、言葉を切ると、小皿に切り分けたステーキに目を移した。荒垣が、舞の手元を見詰めている。
「膵臓の分析の話は、食後にしよう。月曜日の接待ランチに同席したのは、辛嶋先生だね。それで、昨日、バツの悪そうな表情をしていたんだ」
舞は、ステーキを頬張りながら、何度も首肯した。さすがに上質の神戸牛は、冷めても味わい深かった。満足感に浸りながら飲み込むと、口を開いた。
「どうして、同席した事実を、昨日の会議の場で、黙っていたのでしょうね?」
「こちらも質問してないし、不利な状況は隠したかったんだろう。俺が他殺説を持ち出したから、余計になぁ」
舞は、ナイフを動かす手を止めて、前のめりになった。
「いつから、他殺説を疑っていたのですか?」
荒垣が、お得意のニヒルな笑みを浮かべた。
「錦城先生が亡くなった報せを聴いた時。直感だよ」
舞は、思わず声のトーンを落とした。
「実は、私もそういう印象を受けたのです。佐伯桐花の精神鑑定の途中ですし」
「それもあるよねぇ」と、荒垣が首を傾げている。
「違う理由でと、お考えなのですか?」
「被疑者の精神鑑定の事実を知っているのは、一部の先生だけだから限定されるね。角倉は知らないだろう。高出君もどうかな?」
荒垣が、コーヒーを旨そうに啜りながら、続ける。
「確実に知っているのは、辛嶋先生と優子先生だ。あの二人は、確かに怪しい。だけど、錦城先生を亡き者にしてまで、精神鑑定を阻止する理由は? その線で行くなら、被疑者の親類縁者か、恋人だと思うんだ」
ステーキを咀嚼しながら、舞は頭の中を整理した。肉の焦げ目もアクセントになって、旨味が口の中に広がった。
「関係のない話かもしれませんけどね」と舞は、水を一口飲むと続けた。
「角倉先生から、甲神学園に在学中の噂話を教えて頂いたのです」
先日、角倉と二人で回診に行った帰りに、聴いた話を、掻い摘んで荒垣に話した。荒垣は、コーヒーを飲みながら、真剣に聴いていた。
「被疑者が、佐伯一族の末裔かもしれないし、誰かの隠し子かもしれないと。調べてみるよ。何か、おもろい事実がわかるかもしれないねぇ」
荒垣が静かに笑みを浮かべ、窓の外を見た。舞は、プリンを一匙、口に運んだ。固めの生地で、濃厚な味わいだった。どこか懐かしい感じがした。思わず、頬が緩む。
「プリン、好きなのか?」と、荒垣が言う。
「子供の頃は、好きでしたね。栄養学の勉強を始めてから、砂糖の怖さを知って、避けるようになりましたけど」
「砂糖は麻薬みたいなものだからね。錦城先生も、自制の効かない患者を診ているから、学習しそうなものなのに。ご自身の自制は、阻止できなかったんだね」
舞はプリンを食べ終え、コーヒー・カップに手を伸ばした。
「食べ終えたみたいだね。お待ちかねの膵臓の分析結果を伝えるよ」と、荒垣が言った。
舞は院内用のバッグから、ノートを取り出した。荒垣が、眉根に皺を寄せながら続ける。
「予想通り、インスリンの分泌は正常ではなかったよ。ほとんど、糖尿病患者に近い状態だった。Ⅱ型糖尿病だと診断されて、インスリン注射を常時、打っていたら、状況は違ったかもしれないね」
「辛嶋先生も、昨日、気付いていましたよね?」と、舞は言った。
荒垣がテーブルに肘を突いて、両掌を組んで、頷く。
「インスリンの働きが正常ではなかったら、高血糖状態が続くから、血管はボロボロになりやすい。その上、甘い物を頻繁に食べているから、悪循環だ」
「糖尿病の合併症で、脳梗塞を起す可能性もありますよね?」
荒垣が頷きながら、人差し指を上に向ける。
「錦城先生の場合、脂肪毒から糖尿病を誘発する『腫瘍壊死因子』も見つかっているから、糖尿病の線は強いよ。極度のインスリン作用不足と、カテコラミンの異常分泌が重なった可能性も、高いんだ」
「癲癇てんかんの発作を起こす可能性も高いですよね? 昨日の会議の場では、言いにくかったのですが。月曜日の昼休みの時間帯に、錦城先生の研究室の前を通りました」
荒垣が何かを思い返している、顔つきになった。
「あぁ、俺の忘れ物の文庫本を届けてくれた帰りか?」
「そうです。ドアノブに文庫本の入ったレジ袋を掛けた後、関係者用の階段に向かったのです。錦城先生の研究室のドアが少し開いていて、中から怒鳴り声が聴こえたのです」
舞は、コーヒーを一口飲むと続けた。
「癲癇の発作は、極度の興奮状態の時に起りますよね? あの昼休み、発作までは起こしてなかったのでしょうが、癲癇に近い状態だったと推測できないでしょうか?」
「まぁ、癇癪かんしゃくを起して、声を荒げるのも、癲癇の発作を起こすのも、発生機序が、途中までは似ているからね」
荒垣が左手で顎を押さえながら、何かを考えている。
「高出君は、あの時間帯は、いなかったし。優子先生と辛嶋先生は、どこにいたんだろうね。まぁ犯人探しは、後回しだ」
荒垣は言葉を切ると、舞の顔を覗き込むように凝視した。
「解剖の結果、糖尿病の疑いが強い事実はわかった。だけど、錦城先生の健診結果を調べると、血糖値はギリギリ正常範囲だった」
「健診の時は、前日の夕食と当日の朝食を抜きますからね」と、舞が口を挟む。
「あの状態だと、健診前の直近、二食を抜いたとしても、血糖値異常になるはずだ。高血圧と過体重の判定は出ていたけど、BMI値が二十七だから、肥満症ではないんだなぁ」
舞は眉根に皺を寄せて、考えを巡らせた。
「健診結果を偽造するとなると、どのセクションの方々が怪しいのでしょうね?」
「院内LANの構造に詳しくて、プログラマー並みの知識と医学知識を持ち合わせていたら、誰でも偽造できるだろうね」
「誰かが後で、小細工した可能性が強い、ということですか? 例えば、健診の際、各検査の数値を入力するのは、担当した医師とか看護師ですよね?」と、舞は質問する。
「その段階で数値を書き換えるのは、リスクが高い。本人にもバレるよ。たまたま、健診前の二食を抜いたのが、吉と出たのかもしれないしね」
「健診結果の偽造って、よくあるのでしょうか?」舞は納得が行かず、思わず顔を顰めた。
「殺人絡みでは、あるかもな」と言うと、荒垣は、ゆっくりと舞から視線を外した。
「過去に、事件性のあるご遺体を解剖した経験が、あるのですね?」と、舞が問うと、
「どうだったかなぁ。あったかもしれないねぇ」と、荒垣は誤魔化した。
「今後の段取りだけどね」詳細は口外できないのだろう。荒垣が咄嗟に話題を変えた。
「明日から、胃の内容物の分析を始める。暫くの間、平日の一時~三時までの二時間、解剖実習室まで来てくれるかな? 隣に実験室があるから、食品分析の要領で作業してくれたらいいから」
荒垣が、舞の様子を探るように見ている。
「ご希望なら、臓器とか見せるけど。遺体を見たり、臓器の解剖に立ち会ったりする必要はないよ」
「可能なら、見てみたいです!」と舞は、間髪を入れずに口を開いた。
荒垣が「正気か?」と言いながら、苦笑いしている。
浮浪者殺人事件の後、舞は、しばらく肉類が食べられなかった。だが、今日は少量のステーキを咀嚼できた。舞の身体は、遺体を見たショックから、立ち直っているようだ。
荒垣とレストランのレジへ向うと、坂下が待機していた。荒垣が、会計時に芦屋医大のアソート・チョコレートの小箱を二箱、購入した。一箱を、舞に渡す。
「何日かに分けて、一人で全種類、味わってくれるかな? チョコレートが苦手なら、無理強いはしないけど」
舞が、チョコレートの箱を眺めていると、坂下が目を細めて舞を見ていた。
「もう一つ、思い出した光景がありましてね。些細な事柄ですが」
荒垣が、「続けてください」と、興味深そうな表情で坂下を促した。
「このレストランは、病院内にありますから、錦城先生と似たような体型のお客様が、毎日のように訪れます。たいてい、食後に数種類のお薬を飲まれます。しかし、錦城先生は、いつも食後に、二錠だけ市販の頭痛薬を飲まれていました」
舞と荒垣は、思わず目を合わせた。胃の内容物の中に、市販の頭痛薬を飲んだ形跡があった。荒垣が、声を落として質問する。
「市販と仰いますと、よくご存知のお薬だったのですね?」
坂下が、頷く。
「毎回、飲まれていたので、常備薬だと思っておりました。ある時、食後の食器を片付ける際、薬の包装シートから薬品名が見えましてね。テレビCMでよく見かける頭痛薬でした。医局長クラスの方でも、市販薬を利用されるんだなぁと思った次第です」
荒垣の表情が、一瞬、険しくなったが、すぐに口角を上げた。
「よくぞ、思い出して下さいました。ありがとうございます。大変、重要な事柄です!」
坂下が、嬉しそうな表情で、荒垣と舞に一礼した。ランチ時を外したので、店内を見渡すと、客は疎らだった。坂下が、エレベーター・ホールまで見送ってくれた。
エレベーターに乗ると、ドアが閉まるまで、坂下が敬礼していた。四十五度の角度で上半身を倒した、美しい佇まいだった。
エレベーター内は、荒垣と二人だけだった。荒垣が、デジタルの階数表示板を見ながら、口を開く。
「錦城先生は、市販の頭痛薬を常備薬として飲んでいたんだね。糖質過多から来る、頭痛に悩んでいたのかもね。精神科の処方薬と比べると、副作用が少ないし」
舞は何度も頷いた。
「市販薬も死期を早めた理由の一つになりますか?」
「二錠だけなら、問題はないはずだ。だけど、毎日、毎食後に服用していると、カフェイン過多の問題が出てくるよね」
「市販の頭痛薬は、カフェインがキツイですよね。それにコーヒーもお好きでしたし」
「カフェイン過多も、興奮神経を刺激するからねぇ。いつも声を荒げていたのは、これもあるだろうね」
エレベーターが一階に着くと、舞は荒垣の顔を見上げた。
「今日のお話、他言は厳禁ですよね?」
荒垣が、舞の小声を聴き取るため、頭の位置を低くした。
「優子先生に報告か?」
舞は首を横に振ると、歩きながら、続けた。
「西宮警察署の喜多川さんに、錦城先生の他殺説や、伯母から聴いた神山町での噂話を報告したいのです」
荒垣が、納得顔で頷いた。
「話は聞いてくれるだろう。でも、証拠を提示しないとね」
「例えば、錦城先生が糖尿病だったのに、その事実が隠蔽されていたとなると? 警察は動けますか?」と、舞は質問する。
「健診結果の偽造がハッキリと分れば、可能かもね。まぁ、些細な事柄でもいいから、連絡がほしいって話だったよね? 考察の一つとして、披露する分には問題ないと思うよ」
舞は、不謹慎だが、一つ楽しみが増えた気分になった。
「では、優子先生にも、また西宮警察署へ行く旨……」
「ダメだ!」
舞が言い終わらないうちに、荒垣が、静かに言い放つ。鋭い視線で、舞を凝視していた。
「警察に行く話は、当分、優子先生には報告するな。君なら、そのうち理解できるよ」
舞は、思わず、荒垣を睨みつけた。
「荒垣先生は、優子先生の何を知っているのですか? 全容は話せないにしても、ヒントを教えて頂けませんか?」
荒垣が、歩く速度を落とす。さらに表情が険しくなった。
「俺の推論は二つある。一つは、君の推察と同じだ。もう一つが重要なんだ」
言葉を切ると、荒垣は九号館の裏手で立ち止まり、舞の顔を見た。
「確証が難しい。それも、背景が全くわからない。今の段階では、これだけしか伝えられないんだ。すまない……」
荒垣の表情が、少し和らいだ。これ以上の質問は、荒垣を苦しめるだろう。舞は、荒垣にランチの礼を述べると、精神科病棟へ向った。
荒垣の推論の一つは、錦城の健診結果の偽造を突き止める手段だろう。もう一つは、浮浪者殺人事件と錦城の死が、リンクするのか? 荒垣の言動から推察すると、優子が関係するように思えた。
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