終章 14 一九九五年

 喜多川が去ると、再び優子と二人になった。


「優子先生に発見されなかったら、私も危ない状態でしたか?」と、舞は訊ねる。


「一過性の意識消失よ。舞さんの左の鎖骨下に、虫刺されに似た形跡があったわ。今の季節なら、まだコートを着るほど寒くないわね。薄手のニットの上から、《鎖骨下動脈》を狙って、針を刺せるでしょう。血液検査の結果を見ないと、詳しい事情は分からないけど。犯人お得意の《塩化カリウム》ね」


 血液のカリウム値が高くなると、《高カリウム血症》を引き起こす。筋力が低下し、神経が正常に作用しなくなり、脱力感に襲われる。またカリウム値が高すぎると、心臓の機能にも影響が及ぶため、意識が消失するケースもある。


 舞は、優子の機転の速さに、改めて感服した。


「優子先生は、荒垣先生を疑っていたのですか?」


 優子が、バツの悪そうな笑みを浮かべる。


「新薬の開発で、お父様を亡くしているし。錦城先生と対等に話せる立場だから、亡き者にするチャンスはあったかな、と思ってね。可能性のある人物から、舞さんを守りたいと思っていたのよ」


「荒垣先生の恋人が、公務員だと仰っていたのも、わざとですか?」


 優子が悪戯っぽく笑う。


「やっぱり、気になっていたのね。舞さん、疎いところがあるから」


 舞は、首を傾げながら、優子の顔を見る。


「以前、角倉先生からも、同じ発言がありましたわ」


 優子は、口を手で押さえ、笑いをこらえていた。


「落ち着いたら、自分の心に訊いてみなさい。容疑者候補に上がる人物は、時として、魅力的に見えるからね。違っていて良かったわね」


 舞は、壁際のコンセントが気になった。盗聴器を通して、今の会話も、荒垣が聞いている可能性がある。


「私に残された時間は、もう僅かだと思うから。舞さんには、話しておくわね」


 優子は、一九九五年の様子を語り出した。


 優子の夫、仁川祐司は、当時、芦屋医大の勤務医を続けながら、大学院の後期博士課程に在籍していた。優子は、芦屋医大入学時から、佐伯智代と仲が良かった。智代は、祐司の従妹になる。智代は、学内で祐司に会うと、「ゆうちゃん」と呼んでいた。漢字は違うが、優子も幼少のころは、親類縁者から同じ愛称で呼ばれており、親近感を持った。


 智代が三回生の後期で、芦屋医大を退学すると、優子と祐司は、互いに話すようになった。祐司は、優子より三歳年上だった。現在の錦城派の医師、辛嶋と同期で、仲も良かった。祐司は、実習の合間を縫って、優子の勉強もよく見てくれた。


 当時から、近年発表になった《ボルテキセチン》と似た成分の存在を話していた。化学式を組み合わせているうちに、偶然、発見したようだ。大学院へ進学すると、祐司は、まだ名のない成分を探求する。正式な化学成分として認められると、新薬の主成分となる。


 修士を取得すると、祐司は渡米し、二年ほど帰国しなかった。最新の精神科医療の現場を、視察していた。帰国すると、後期博士課程に進み、優子と結婚した。


 祐司の大学院での担当教員が、錦城だった。まだ准教授で、教授のポストを狙っていた。


 祐司の研究は、順調に見えたが、探求する成分に、重篤な副作用がある事実を発見した。一九九三年頃から、薬学部の荒垣政勝博士に相談するようになった。政勝の本職は、実家の薬局経営だ。講師として芦屋医大に籍を置き、研究を続けていた。


 政勝が、新成分の副作用を実証するのに、二年近くの歳月が掛った。祐司と政勝は、新成分の副作用を鑑み、世に出すのは危険だと結論づけた。


 祐司は、この研究を、錦城が自分の手柄にしたい気配を感じていた。組織に属していると、上司に成果を横取りされる事態は、日常茶飯事だ。そのため、自身の研究成果が、担当教員の手柄になる事実は、承知していた。だが、副作用が強力な成分が出回れば、誰が開発しようと、患者を苦しめる結果になる。


 祐司は、錦城にしつこく問い出されても、「失敗に終わった」と報告した。途中課程のデータも、葬った。これは、博士論文の抹消も意味する。


 アメリカの現場視察で、祐司は、次なる研究課題を見つけていた。現在の優子の研究、栄養療法だった。そのため、芦屋医大での博士取得に固執しなかった。


 学位は取得できなくても、大学院のカリキュラムは、こなす必要がある。最後まで修了すると、卒業を意味する《博士課程単位取得満期退学》と表記できるようになる。今後、アメリカで研究を続ける際に、有利となる。


 一九九五年一月十六日は、三連休の最終日だった。錦城の命令で、祐司と辛嶋は、三連休中、錦城の研究案件の実験を行っていた。作業が難航し、日付が変わった。十七日の明け方は、交代で仮眠を取りながら、三人は最新設備の実験室に籠っていた。


 辛嶋は、祐司より先に博士号を取得し、当時は錦城の助手だった。


 祐司は、辛嶋に、自身の研究の詳細を話していなかった。辛嶋も自身の研究テーマに没頭しており、祐司の研究には、興味を示していなかった。


 当時の錦城は、教授会で認められるほどの成果は、まだ出していない。そのため、祐司が自身の研究テーマを葬るなら、我が物にしたいと、必死だった。錦城は、コンピューターの知識に明るく、葬った祐司のデータの復元も試みていたようだ。


 当時のコンピューターは、現在の物ほどセキュリティが厳しくない。震災後の錦城の研究成果は、華々しい。その事実から察すると、三連休の実験時には、復元データを入手していた、と考えられる。


 祐司の研究内容に興味がなかった辛嶋からは、疑われる可能性も低い。後は、祐司が大学院を満期退学し、渡米するのを待つだけだ。だが、新薬が発表されると、祐司の耳にも入るだろう。錦城にとって、祐司の存在は邪魔であった。


 そこへ、錦城にとって都合の良い事態が起きる。一九九五年一月十七日の早朝に起こった、阪神淡路大震災だ。その後の様子は、舞が、小絵から聞いた噂話の内容と一致していた。祐司だけが、逃げ遅れて、犠牲になっている。裕司は、故意に錦城に置き去りにされたと考察できる。だが、状況証拠はなかった。

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